釈義 - B年 年間 |
第一朗読:イザヤ50,5-9a
イザヤ50,4-11は、「主の僕の第三の賛歌」と呼ばれる部分である。ここで「主の僕」は知恵がある方として(イザ50,4-5)人々に神の道を教える。彼の活動に反対する人々もいる(イザ50,6-7)が彼は神を信頼しているので、恐れがない。
マタイによる福音書によれば、「主の僕」はイエスである(マタ26,67;27,30-31)。
第二朗読:ヤコブ2,14-18
キリスト者は信仰により義とされる。しかし、キリスト者には信仰があるということを証しする行いが必要である。つまり、イエスを信じている人々はイエスの教えのとおり生活するはずである。キリスト者の行いがキリスト者の信仰を示す。
西キリスト教が16世紀に分裂した理由の一つはこの言葉の解釈であった。
福音朗読:マルコ8,27-35
ペトロは信仰がある人であった。だから、イエスがメシヤであるという告白をした(マコ8,29)。しかし、彼はイエスの教えや道をまだ理解できなかった。だから彼の信仰と行いがなかなか合わなかった。この時ペトロは信仰がこの世の命のためであると思っていたのだろう(マタ8,33)。この世の命が信仰のためであるということを後に学んだ(マタ8,34-35)。
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