メッセージ - B年 年間

 

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ 10: 17)

永遠に生きることは、すべての人の望みです。体がいつか必ず死ぬことになっていますが、神の恵みによって魂が永遠に生きること、人の来世が地上の生き方によるものであるという信仰は、キリスト教の特徴だけではありません。この意味で、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいかをと、福音の青年が問いかけているわけです。

イエス様は、永遠の命を得るために第一条件として「神の十戒」を守ることをあげています。この点では、青年はパーフェクトで、掟を子どもの時から守り抜いたと自慢しました。神の掟を破るなら、死後、罰を受ける恐れがありますが、罪を犯さなかったこの青年が何を心配してキリストの方に訪ねたかは、考えさせられます。掟を破ることは人のマイナスであるが、守るだけでプラスにはならず、ゼロからのスタートだと言いましょう。福音の青年は悪いことをしなくても、心が空っぽで命がないことに気づき、「プラス」(心を満たすこと)になるために、どうすればよいかを探し求めました。

イエス様は、永遠の命を捜す青年を喜び、彼に慈しみを示してくださいました。足りなかったのは、ただ一つ、キリストに従うことです。それは、キリストの心を持って生きることです。キリストが生きた人生とは、人のために自分の命を献げる死に至るまでの愛の実践です。十二使徒はイエス様に出会うと、何もかも残してキリストに憧れて従いました。彼らにとって、この世のものが価値を失ってキリストがすべてになり、彼らの喜びはキリストの業を行うことでした。

イエス様は、青年をもう一人の御自分の弟子にしようとお呼びになりました。キリストに従う証しとして青年は財産を貧しい人々に施すようにと求められました。ここで、キリストか、それとも自分の富かという二者択一に立たせられた青年は、残念なことに自分の富を選びました。そして、悲しみながらキリストから離れたのです。

キリストは私たちの生活の中でどんな位置があるでしょうか。多くの信者は時間がないから、御ミサに来られないという現実は、神様のためには余った時間だけにするなら、キリストを最後にし、大切にしないことになります。だからこの頃沢山の信者が、金持ちの青年ように教会から離れて行きます。キリストは私たちに慈しみの目を注いで待っておられます。私達が勇気を出して無条件、なお、いつも喜んでキリストを選ぶことができますように。