メッセージ - C年 待降節

「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」ルカ 3:15

民衆はメシアを待ち望んでいたのに、メシア・救い主が実際に来られたとき、彼を喜んで迎え入れたのではなく、「十字架につけろ」と叫んで、ローマの兵士の手によって殺してしまったのです。それは、非常に悲劇的なことでしたが、私たちの人生においても、同じようなことが起こっていないでしょうか。

人間は、それをはっきりと意識しなくても、誰かに意向的に会おうとしているときに、必ずこの人に関して何らかの期待を持っています。非常に多くの場合、この期待は出会った人自身や、この人との出会いを評価する基準になっています。この人は、私たちの期待通りに話したり、期待通りに振る舞ったりするならば、私たちは満足や喜びを感じて、この人を高く評価します。しかし、客観的にこの人が私たちに良いことをしても、それは、私たちが期待したようなことでないならば、がっかりしますし、この人やこの人がしてくださった良いことを受け入れることができないだけではなく、この人を非難したり、攻撃したりすることがあります。当時の人々がイエスを排斥してしまったのは、イエスが悪いことをしていたからではなく、この人たちがメシアから期待していたようなことをしなかったからです。

私たちは、この人たちと同じような過ちを犯さないために。キリストを迎え入れる準備のために与えられている待降節の後半を生かし、自分の心を支配しているいろいろな思い込みや勝手な期待、また、余計な愛着や拘り等のようなことを手放して、私たちのために最善のことを求め、最善のことを行うイエスをありのままに受け入れることができますように祈りましょう。