釈義 - C年 待降節 |
テーマ : きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった
第一朗読:ミカ5,1-4
預言者ミカはモレセト市に住んでいたが、宗教的な活動はエルサレムでした。彼はイザヤ,ホゼア、アモスら預言者たちと共に(紀元前759-698)ユダヤ人の社会や宗教的な問題(ミカ2,2;6、11;ミカ3,5.11;ミカ5、12;ミカ1、7;ミカ1,8;8,11-13)を正すために強く批判した。しかし、彼の教えの中には慰め的な預言もある(5,1-3)。この第二朗読の言葉はユダヤ教にとってメシアに関する言葉である。キリスト教にとってはこの言葉はメシアとしてのイエスを表している。
第二朗読:ヘブライ10,5-10
第二朗読の言葉は「大祭司としてのイエス」という主題(4,14-10,18)が一つの部分である。一般的に言えば、ユダヤ教の教えにとって人間の罪を許すことができるのは、神だけである。ユダヤ教の律法では、罪が許されるためには、エルザレム神殿で捧げ物を捧げなければならない。ヘブライ人への手紙の著者とこの手紙の受取人たちはイエスを信じているユダヤ人であった。だから、ヘブライ人への手紙の言葉によれば、神のみ旨のとおりイエスは人間の罪が許されるように自分の命を捧げ物として捧げた。この捧げ物が完全な捧げ物である(10,10)。
福音朗読:ルカ1,39-45
ユダヤ人社会ではマリヤよりエリザベトの立場のほうが高かった。だから、マリヤは身籠ったエリザベトを助けるためにガリラヤのナザレからユダのベツレヘムまで危険な旅をした。マリヤのあいさつの後のエリザベトの言葉(1、43)が予言であった。社会的な立場が低い者の子供が社会的な立場が高い者とその子供の主になるからである。ルカによれば、エリザベトはこの予言を聖霊の力のうちに語った。ルカの書物では聖霊の力がすべての正しく不思議な業の理由である。
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