メッセージ - C年 四旬節

 

テーマ:  「だれもあなたを罪に定めなかったか」(ヨハネ8,10)

モーセの律法に従って、姦通の女は自分の犯した罪のため死刑の宣告を受けることになっています。モーセが書いた律法は神の息吹を受けている聖書であり、神の言葉であるから真実を伝えています。それにもかかわらず、神の子イエス様は姦通の現場で捕えられた女を死刑にすることも、罪に定めることもありませんでした。矛盾に聞こえるこの説は深いメッセージを含んでいます。

愛と義を実践して生きている人間にとって法律は無意味なものです。法律の特徴と目的は、人の過ちと罪を指摘し、その責任を問うことです。同様に姦通の罪にについて聖書の中で律法も神様の前にその罪の重さを正しく指摘しています。しかし、神様は人の罪を追い詰める神だけではなく、むしろ、恵みと慈しみに満ちておられる方です。楽園の物語にもあるように、神様が創造の業の上に定めた秩序を壊すと、人は自ら自分を命の源である神様から切り離して、死ななければならない者となりました。しかし、神様はアダムとエヴァを怒って彼らの死を望んだわけではなく、彼らを捜し、罪を犯したことを残念に思い、彼らを憐れみ、その子孫から救い主が生まれることを約束してくださいました。何千年にわたる救いの歴史の中で、神様は罪人を死から救うために契約を結び、キリストの内に御自身が私たちを救うために来てくださったのです。

きょうの福音で、罪人たちは罪人を裁いて死刑にしようとする現実が描かれています。違いはただ一つ、ファリサイ派と律法学者たちの罪が人に知れられず、姦通を犯した女の罪が目撃されたということです。自分たちではなく、別の人が罪で捕まれたことで、彼らは彼女の罪を追い詰め、皆が姦通の女に目を向けることによって、自分たちが義人に見える喜びを味わいました。ついでに、キリストが律法を破る罪人だと証明することができれば、なおさらのことでしょう。

イエス様は、姦通の罪が死刑に値することを否定することなく、律法に従って姦通の女に石を投げるように言いました。ところで、神様は捕まれられた人の罪も、捕まれていない人の罪も同じくハッキリと見えます。したがって、イエス様は、罪を犯したことのない者に石を投げるようにと言われました。彼らは神の前に誰も正しくなく、自分たちが同じ刑罰を受けるはずの罪人だと実感して、その場を立ち去ったのです。

キリストのように正しい人は、心の中で罪人の死を望まず、罪人が回心して生きることを祈ります。キリストは姦通の女も、ファリサイ派の人々をも罪に定めませんでした。律法学者たちとファリサイ派の人々は、自分たちの罪に気付いたが、命の源であるキリストから離れ去ったことが残念でした。キリストは、女にその罪の重さを実感させて、もう罪を犯してはいけないと戒め、愛と赦しの力によって神様が与えてくださる命へと繋いだのです。

四旬節に当たり、私たちの一人ひとりも、神の掟に従って人生から罪を取り除き、謙遜に神様の愛と恵みに心を向け、命に繋がる働きを実行することができますよう、祈りましょう。