メッセージ - C年 年間

「わたし(イエス)が来たのは、地上に火を投ずるためである。」ルカ 12:49

社会の中で、家族の愛、親子の絆、共同体の一致、諸民族の友情関係、人間共同体の協力や助け合いなどによって平和を実現することは、尊いものとして認められ、分裂や戦いを社会の中から取り除くべきであるということを、常識としてどんな社会の中でも教えられています。ところで、本日の福音の中で、キリストはこの常識を覆すような表現を用いて、御自身が来られたのは、地上に火を投ずるためであることとか、地上に平和をもたらすためではなく、分裂や、家族の中で親と子が対立して分かれるためであることなどを言われたりします。

人間は、誰でも平和、喜び、愛を求めます。しかし、人間の本性には罪のためにキズがあって、滅びへと導く悪い楽しみに惑わされ、自我と欲望のために必ず悪が付きまとうのです。私たちの一人ひとりも、また、それぞれの社会の共同体も、自分の内に悪が生じる場合、それを恥じ入り、認めたくないように悪を隠したり、見せかけの平和を作ったりします。例えば、現代の親の大勢には、自分の子どもを諭すことも注意することも怠っているという現象が現れています。調査によりますと原因は様々です。子どもを悲しめないため、子どもが暴れないため、子どもに嫌われないため、子どもを叱ると親子の関係が悪いと人の目に映らないようにするため、忙しい中で面倒だから物を買って子どもの気持ちをごまかすことなどに理由があります。このようにして幸せに見える家族の中で、秘かに悪が育てられ、義と愛を失って心の平和に繋がりません。

御ミサの中で私たちはキリストの御言葉に倣い、世が与える平和ではなく、キリストの平和を願い、「主の平和」という言葉を持って、平和の挨拶を交わします。キリストは悪に染まった人間と戦うのではなく、御自分の命を献げる最大な愛を持って罪人である私たちを救うために来られたのです。キリストは、悪を退けるために悪と戦われますが、誰であろうとも、悪意を持つ人との分裂を避けられないと教えています。しかし、キリストは善意の人々を皆、罪から解放し、御自分の内にすべての人を一つにすることを望んでおられます。

聖書の中での「火」とは、破壊する力としてよりも、「神の臨在」を表現する象徴として用いています。神様は「燃える芝」の中からモーセに語りかけて、使命を与え、『火』の柱の内に御自分の存在を秘められ、イスラエルの民を災いとすべての悪から守り、約束の地まで導いてくださいました。イスラエルの民は、『火』を用いて神様に全焼のいけにえを献げることによって創造主への感謝、尊敬と愛を表現し、その煙は天と地、神と人を繋ぐしるしとなりました。預言者イザヤが召命を受けた時に、神様は彼の口を祭壇の上で燃える炭火で清め、彼を聖別して御言葉を宣べ伝えるために相応しい者としてくださいました。また、新約時代に御昇天なさったキリストは弟子たちに御父から聖霊を注ぎ、聖霊は舌の形を取った炎として現れ、十二使徒の内に留まって、教会の中で神様が生きておられることを示したのです。

したがって、キリストが世界に火を投ずるというのは、金が火の中で精錬されるように、すべての人々が神様の愛の火によって清められ、心を燃え立たせて御父の御旨を行い、「神の似姿」、「神の子ども」としての自分らしい自分を見出すためです。