メッセージ - C年 年間

 

「やがて、この貧しい人は死んで、

天使たちによって宴会にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。」(ルカ16,22

 

本日の福音の中でキリストの物語には、二人の人物が途上します。それは金持ちとラザロです。彼らは距離的にとても近い存在で、同じ敷地に生活しながらも、仲良くすることも喧嘩することもなく、互いの交わりがありませんでした。二人は全く違う世界に属していました。このような現実は、キリストの物語の中だけで起こるものではありません。現代社会の中でも、同じ建物に住む人々も互いの名前も知らず、歩く道に横たわるホームレスの人達が無名で別世界の者として見做され、同じ所で食べたり飲んだりしたとしても、各々は互いの接点もなく、全く違う世界に属する状態がマレではありません。

福音の金持ちの生活は、世俗的な価値観において理想的なものです。すなわち、彼は人に迷惑しないで、貧しいラザロをいじめることなどの悪いことをしないし、楽な方法でお金を手に入れて高価な服を身に着け、友達と楽しく遊んだり、美味しいものを食べたりして、豊かな生活と富によって「有名」な人になりたいと思ったわけです。現代社会の中にもそういう生活を憧れている人がとても多いのです。ところで、家も、富も、着物も、食事も、健康も、友達もいないラザロみたいな人は、惨めな者であると思われて無視され、「無名」な人と見做されていることもたくさんあります。

しかし、キリストの場合、この現実は丁度その反対の意味を持っています。キリストは、福音の見捨てられた貧しい人に名を与えました。すなわち、彼は、名の有る「有名」な人になり、「ラザロ(神は助ける)」と呼ばれています。死んだ後、ラザロは天の国で偉大な父アブラハムのそばにある宴席に座るようになりました。彼は、地上で人間らしく立派に生きたいという望みがあっても、人からそれができないようにされました。しかし、神様はその望みを予想以上に適え、勲(いさお)によるのではなく、神の恵みによって天の国で救いの喜びを味わうようになったのです。

ところで、福音の金持ちは名前がありません。天の国において、彼こそは「無名」な人になりました。金持ちの人は、富と快楽の中で神の前に自分を失ったからです。彼は、地上で神の国と人々のためにたくさん出来たはずなのに、貪欲のために隣人に対して人道的な行いもなく、困っている人を助けるという最も基本的な人間の心を欠いていたから、キリストから名前を貰いませんでした。

社会において私たちは親の愛と望みを表現する名を頂き、それを戸籍謄本で記されています。そして、洗礼によって神の子供としての使命を現す教会が与える霊名があり、それは洗礼台帳に記されています。しかし、神様の御心の内に、私たちの一人ひとりの本性と使命を現し、自分自身だけを神様から呼ばれる唯一の「名」が記されていることでしょう。私たちは、この世の世俗的な価値観に流されて快楽などの罪と愛の無さのためにその「名」を失うことなく、むしろ、御心を行うことによって自己実現して、最期の時に、その「名」でキリストのそばに呼ばれることができるように祈りましょう。