メッセージ - C年 祭祝日

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23,43)

イスラエルの王は、神様のみであると聖書が教えています。なぜなら、神様は自らすべてのものに存在をお与えになり、命の源となられ、すべてを支配されます。歴史的にイスラエルを支配していた王たちは、他の国と違って自分を神として権力を奮う者ではなく、神の代理として支配しなければなりませんでした。日本の文字も現しているように、「支配」の「シ」は支えること、そして、「ハイ」は配ることを意味するように、イスラエルの王は、愛を持って国民の生活を「支え」、貧しく弱い立場にある人(寡婦、孤児など)に食べ物などを「配る」ようにする責任がありました。また王は、正義をもって民を善へと導き、すべての敵と悪から守らなければならないという使命を持っていました。しかし、列王記が紹介している王たちは、物欲、権力欲、快楽欲に負けて神様に対して罪を犯しました。南ユダ王国の19人の王が支配していましたが、その中で8人だけは、回心して「主の目にかなう正しいことを行った。」と書いてあります。北イスラエルの王国では20人の王が支配したことがありましたが、その中でただ一人が「主の目に適う正しいことを行った。」と認められ、他の皆は「主の目に悪とされることを行った。」と記されています。

イエス・キリストのみは、御父がお望みになった真の王です。本日の福音が描かれているように、彼は世俗的な支配を望まず、人の救いのために地上で誰よりもたくさんの苦しみを受け、強盗と共に十字架に付けられて、誰よりも大きな侮辱を受けた者です。キリストの十字架には、「これはユダヤ人の王」とローマ総督ピラトの書いた札が掲げていました。この表現は地上の権力者の無力を表現します。しかし、キリストの王位がこの世のものではないとイエス様はピラトに言われました。キリストは、すべての人の罪の赦しと永遠の命を頂くために自分の命を贖いとしてお献げになり、神が望まれる王としての勝利とは、愛と赦しをもってすべての悪に打ち勝ち、御復活をもって死を滅ぼすことです。

イエス・キリストの左右の十字架に付けられた強盗は二人とも神に対して罪を犯した私たちの代表者です。自分の罪のために私たちの皆は一度死ななければなりません。私たちは自ら自分を救うことも、永遠に生きることもできません。私たちは、御父に無条件に愛されたから、その憐れみと慈しみによって救われます。御子イエス・キリストは、十字架上で私たちの救いのために命を献げる最大の愛を示して罪を赦し、御復活を持って私たちに恵みとして永遠の命を与えてくださいました。大切なのは、私たちの一人ひとりが心を開いてこの救いの恵みを頂くことです。

キリストを侮辱した強盗は、自らその救いの恵みを拒む人たちの代表者です。十字架にかけられた無罪のキリストを見ても、彼は罪を悔い改めることなく、ただ罪を自由に犯すことを望んでいたから、キリストに愛されても救われることはありません。もう一人の強盗は、自分の罪に値する十字架の刑を素直に受け入れ、悔い改めてキリストによる救いの恵みに与る人々の代表者です。十字架上での愛の勝利を見た彼は、イエスを、神の国の王と認めて自分自身を委ねたから救われました。このような人々の心の中で王であるキリストは君臨していると言います。その信仰が強盗に約束してくださったイエス様の言葉に基づいています。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。