メッセージ - A年 待降節

 

 

「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼より偉大である。」(マタイ2,11)

 

本日の福音は、私たちに次のことを問い掛けていると思います。

1.信仰に関しては、救い主を待ち望む旧約時代(待降節)とキリストの時代(教会時代)の間に、基本的な違いがどこにあるのか。

2.教会の中で信仰を受け継いだ私たちの一人ひとりは、キリスト者の信仰を育んでいるか、それともまだ旧約時代の信仰に留まっているか。

 

洗礼者ヨハネは、イエス様が神の子キリストであることをよく知っていたはずです。彼こそは、キリストの到来を告げた最後で最大な預言者です。彼は、キリストを迎える準備として人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝え、小さな者から王ヘロデまで、各自の人生の道を正すように呼びかけました。彼こそは、洗礼を授ける時にイエス様の上に聖霊が留まったのを見、「これは私の愛する子」という声を天から聞こえて、キリストについて証しして紹介しました。しかし、王ヘロデに逮捕されて牢獄に入っていた時のヨハネは、イエス様のなさった業について聞いて、「来るべき方はあなたでしょうか。」と自分の弟子たちを送って尋ねさせます。何故、その時にヨハネの心の中で疑いが生じたのでしょうか。

教会も、度々、牢の生活を送った洗礼者ヨハネ見たいな試練に遭遇し、また罪深いこの世の価値観によって信仰が試されます。すなわち、教会は回心の業を行ったり、洗礼を授けて多くの人は神の子どもとなり、キリストの言葉と行いを教えたりして、その上、秘跡のうちにキリストに出会わせ、御ミサの恵みによって主の晩餐に与り、死に至るまでキリストに愛されたことと永遠の命の糧であるキリストの体を私たちに与えます。それにもかかわらず、私たちの間から信仰を離れる人が大勢います。ある信者は、キリストの教えに従って生きることなく、世俗的な価値感、罪のためのつまずきや、この地上の楽しみを優先にして祈りや信者としての務めを守らずにいます。他の信者は神の罰を受けないために、祈り、御ミサや他の秘跡に与ったりするという教会の決まりを守りますが、日常生活において彼らの心は神から遠く離れているケースが多いのです。このような教会の現実は、使徒ヨハネが生きた旧約時代の信仰には限界があることを示します。だから、教会の典礼は私たちに旧約時代を思い起こさせる待降節を毎年与えます。それは、私たちが主の御降誕の神秘に与ることによって教会が持っている信仰に入るようになるためです。

ヨハネが牢で監禁され、現実上、福音宣教していたキリストと共に居ることができなかったために、この時点で彼の信仰は未完成でした。(ヨハネの信仰は後の殉教によって完成されたことでしょう。)イエス・キリストは、洗礼者ヨハネについて、「預言者以上の者」、「女から生まれた偉大な者」であると証言しますが、神から生まれていないから、天の国では最も小さな者でも、彼よりは偉大であると仰せられます。ヨハネは、人間の力によって信仰を育む者の手本です。しかし、信仰は神の恵みです。教会の信仰は、御降誕の神秘によって、人間が罪から解放され、神の子として霊によって新たに生まれるために、神の子が人間としてお生まれになったというものです。福音にあるように、人となられた神の子は御自分について預言されたことを成し遂げていると、言葉に置いても、行いに置いて示しました。また、キリストの御受難と復活によって成し遂げられた救いは、洗礼を初め、秘跡、特別の意味で御ミサや他の典礼を通して、恵みとして教会の中で私たちに与えられました。

大事なことは、この恵みに応えて信仰生活を送ることです。キリストを生きる本物のキリスト者になるためには、私たちに次のような信仰の変化(成長)が必要とされます。

1.   自分の罪を悔いて神様にお詫びする人から、罪を認めて神様に立ち帰り、キリストが十字架上で成し遂げられた罪の赦しに与る人への変化。

2.   神の掟、教会の決まりや典礼的な務めなど、神の罰を恐れて果たす人から、キリストの愛に愛をもって応え、祈りと秘跡の内に神との一致を心から望む人への変化。

3.   祈りや宗教的な儀式によって神様が人間の望みを果たしてくださると思う人から、自分の人生をすべて神様に委ね、生涯キリストを自分の心に留め、神の御旨を果たしてくださるキリストの業に参与する人への変化。

このように自分の信仰を成長させた者は、キリストが本物の救い主であるかどうかを確認する必要はありません。キリストが言われた通りに、その中の最も小さな者でも、天の国では偉大な者になることでしょう