メッセージ - A年 四旬節

第一朗読:サムエル上16,1.6-7.10

神の御旨を行うため預言者になったサムエルは、サウルの件で大失敗したと思い、苦しみを感じて預言者として自身を失ってしまった(サム16,1)。サウルがまだ生きている時に新しい王を選ぶことは非常に大変な責任があるというだけでなく、非常に危険なことであった(サム16,2)。「この人である」というサムエルの考えは神に認められなかった(サム16,7)。神の僕の考えは必ずしも神の考えということではないだろう。

第二朗読:エフェソ5,8-14

キリスト者になる前、異邦人たちは暗闇の内に生きており、永遠の死の道を歩いていた(エフ5,8)。回心したことにより、彼らはキリスト者として今、光の内に生きている。つまり、善意と正義と真実を持って信仰の道を歩き続けている(エフ5,9)。この世での彼らの人生の目的は、神の御旨を探して行うこと(エフ5,10)と、まだ暗闇の内に生きている人々が生活の仕方を変えるために必要な教えと証を与えることである。

 

福音朗読:ヨハネ9,1-41

イエスの時代、ユダヤ人にとって貧困や苦しみや災害などは、罪を犯した人々に対する神の罰であった。そして、不思議な業や奇跡などを行う人は自分の力ではなく神から貰った恵みによってそれが出来るのである。健康や繁栄などは「良い人である」ということを証する神の恵みであった。

この二つの考えは良い人と悪い人を簡単に区別するための基本的な考えであった。そこでイエスの弟子たちは聞いた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハ9,1-4)。そして、癒された人は言った「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。」。

人を癒すことは良いことである。したがってこの癒しが行われた人が良い人である。この論理的な結論は真実であるが、心は悪い人々は真実を認められない(ヨハ9,24-29)。心が良い人は真実に従う(ヨハ9,35-38)。