メッセージ - A年 復活節

 

第一朗読:使徒2,14.36-41

五旬際の時、聖霊に満たされた十二人の弟子たちは世界の様々なところから祭りのためエルサレムに集まったユダヤ人にイエスについての福音を述べ伝え始めた(使徒2、1-2)。

ペトロは弟子の頭として最初の話を始めた(使徒2,14-35)。第一の朗読の言葉はこの話がもたらした結果を示す。神は,十字架につけて殺し、三日目に復活させたイエスを主とし、またメシアとなさったという福音を受け入れることができたユダヤ人たちは、イエスの弟子になるために必要なことは何かとペトロに尋ねた(使徒2、37)。彼は答えて言った。神の約束は神に選ばれたすべての人々のために与えられた恵みである(使徒2,39)。「神の約束」というのは聖霊の力のことである(使徒2、17-21)。聖霊の力を受けるためにまず必要なことは一つ、回心(自分の考え方や行いを変えること)することである(使徒2、38)。そして、犯した罪が許されるためには、イエスの名によって洗礼を受けることが必要である(使徒2,38)。この二つのことができた人々は、必ず聖霊の力を受ける(使徒2、38)。この日、この道を選んだ人々は約三千人であった。

第二朗読:一ペトロ2,20-25

神は,十字架につけて殺し、三日目に復活させたイエスを主とし、またメシアとなさったという福音を認めることができた人々の中には、ユダヤ人だけではなく異邦人もいた。ユダヤ人は「イエスはメシアである」という教えに注意を向けたが、異邦人は「イエスが主である」という教えに注目した。一世紀には、キリスト者になった異邦人は奴隷の場合が多かった。ある奴隷(特に厳しい主人がある奴隷の場合)は「主はイエスしかいない」という気持ちの内に自分の主人に対して反抗した。そのような考え方や行いは、この表現に対するキリスト教の理解ではなかった。また、このような行いがあるから、社会はキリスト教の教えを認めたがらないのである。それは原初キリスト教の将来にとってあまり良いことではなかった。だから、ペトロは奴隷として暮らしているキリスト者たちに「主人に従いなさい」という教えを説いた(一ペトロ2、18)。もし主人から不当な扱いを受けたら、イエスのように忍耐の内にすべてを受けて(使徒2、21-22)裁きは神に任せることである(一ペトロ2、23)。

福音朗読:ヨハネ10,1-10

この譬えは分かりにくいだろう。イエスの弟子たちでさえ、この譬えの意味が理解できなかった(ヨハネ10、6)。「イエスは門である」というのはイエスが天国の門であるということである(ヨハネ10、9)。この門を選んだ人にだけ永遠の命が与えられる(ヨハネ10、10)。他の門は不正な門であり、無駄な門である。

イエスの話によれば、福音を述べ伝える牧師たちはイエスに従わなければならない。だから、イエスの教えに従わない、イエスの業を行わない牧師はイエスの牧師ではない(ヨハネ10、1)。そのような牧師はキリスト者として認められないのである(ヨハネ10、5)。