メッセージ - A年 祭祝日

 

 

一年間に亘ってキリストの誕生から死と復活、キリストの教えを心に留め、人生をキリストと共に歩むように招かれて、迷うこともあっても、各自は自分なりにキリストと共に人生を歩んだと思います。世界の終末や一人ひとりの人生の終りがいつ来るのか、またその時になったら自分が神の国に入ることができるかは、問いかけることがあることでしょう。キリストは多くの例えを持って、神の国が我々の間にあると言われ、ただ、「目を覚まして」、それに気付くように教えてくださいました。本日の福音の中で、キリストは私たちの次元の問い掛けに答えようとして、御自身が世の終わりに神の国の王として全ての人を裁くために来られる例えを話してくださった。

それは羊飼いが羊と山羊を左右により分け、ある者には永遠の命を与え、他の者は永遠の罰を受けると言います。決る基準は、私たちが神様の被造物として人間らしく生きたかどうかということにあります。創世記にしたがって、神様は人間を永遠に生きるようにお造りになりました。神様は人を御自分の似姿に造られたが、一人ではなく、男と女にお造りになったと書いています。また、楽園の物語のなかで、アダムを造った神様は「人は一人で生きるのは良くない」と宣言して、助け合うためにエヴァをもお造りになりました。したがって、人間の本質は、自分のために生きるのではなく、他の人のために生きることです。これによって我々は神様に似る者となりますます。

神様はすべてのものを造り、支えて愛し、キリストの内に人間となって、すべての人の救いのために命を献げて、十字架の死に至るまで愛し抜かれました。これにおいてこそ、キリストは、何よりも人生を人間らしく全うし、真にすべての人の心の王です。キリストは福音の中で、人が他人に対して悪いことをしないから救われると約束なさっていません。また、計算的になって自分が天国に入るために善行を蓄える者も、神の似姿として人間らしく生きたとも言えません。なぜなら、自分だけのために生きたからです。

例えの右側に集まっている羊のような者たちとは、自分の救いを考えてキリストのために何かをやってあげたりした意識は全くありませんでした。けれど、隣人が飢え、渇き、病気し、裸であったなどの時に自分を忘れて世話してあげる愛をもっていたから、キリストと共に君臨するように招かれたのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。(…)兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたなのである。」と言われました。

このように、私たちの一人ひとりもキリストと共に君臨するように呼ばれています。しかし、神の国を受け継ぐには、信心の業に励むということより、自分を空しくして他人のために心を尽して生きていたかどうかということが大切なことです。