メッセージ - B年 降誕節

朗読: イザ52:7-10

ヘブ1:1-6

ヨハ1:1-18(1:1-5, 9-14)

第一朗読に、預言者イザヤは「いかに美しいことか山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。・・・その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に喜び歌う。・・・歓声を上げ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれた」と告げました。神に逆らうため、イスラエルの民はバビロンへ捕囚人として連れて行かれました。しかし、神はご自分の民を異国の地で囚われの身のままには見ていられません。ペルシアの王キューロスを通して、神はイスラエルの民を捕囚の地から返されました。バビロンからエルサレムへ。捕らわれの地から自由の地へ。これがシオンの町に、エルサレムに告げられた良い知らせです。神の民イスラエルにとっての最大の慰め、最高の喜びです。

神がイスラエルに行われたことはもっと偉大な救いの業、イエス・キリストを通して行われる救いの業を準備するものです。「言は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光をみた」とヨハネは宣言しました。「受肉」は神がとった大胆な行動です。神が人間となる、無限の存在が限られている時間と空間の中に入ります。天地万物を造られた全能の神が無力な一人の人間として生まれる。人間を救うために。罪の暗闇の中に閉じ込められている私たちを救うためです。自分ではもうどうしようもできない私たちを救うために、神は愛を持って自分がこの世に来たのです。これこぞが新しいイスラエルにとっての良い知らせです。全人類にとっての最大の慰め、最高の喜びです。

神の受肉を祝うクリスマスはけっしてロマンチックなものではありません。そもそも神が人間になったということは、神が生身の人間となられたということです。冬になると寒く感じ、風を引けば発熱し、頭痛し苦しみます。悪口を言われれば、気げんが悪くなり腹が立ちます。ほめられると喜び、誕生日を祝ってくれるとうれしく楽しく感じます。そんな人間になったということです。四苦八苦の人生の中で、傷つき悩む人間になったということです。神が私たちと同じように生まれ老い、痛み死にゆく人間になったということです。私たちを救うために。これこそが人類にとって、全ての被造物にとって、私達一人一人にとっての良い知らせです。山々を巡っても、声を張り上げて世界に伝えなければならない良い知らせです。