メッセージ - B年 祭祝日

 

朗読: マラ3:1-4

ヘブ2:14-18

ルカ2:22-40(2:22-32)

 

「受肉」は、イエスの誕生のみを指すのではありません。受肉の神秘は、ベトレヘムでの誕生から始まり、ゴルゴタでの受難死と復活までのイエスの人生全体をひっくるめて指す出来事です。エルサレム神殿での『主の奉献』も受肉の神秘の一連となっています。イエスは一人の人間、一人の男の子、一人のユダヤ人、一つの家族の一員として、人類の歴史の中のある時に、パレスチナという特定の場所で生きていたのです。ユダヤ人として、ユダヤ人の習慣、ユダヤ教のしきたりに従って、ヨセフとマリアは生後40日のイエスを神殿で奉献するのです。「神の子」を「神」に捧げるのです。「まことの神殿」をやがて破壊される神殿の中に連れていかれるのです。イエスは神なのに、なぜ?その答えは、第二朗読のヘブライ人への手紙にあるように「民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったのです」。

イエスは人間となったことで神の子の輝きが消えた訳ではありません。その輝きは老父シメオンの目にも、84歳の老婆アンナの目にもはっきりと移っています。人間となったことは、神の子としての輝きを失う訳ではないことを、神殿で奉献された幼子の姿が物語っています。神の似姿として創造された一人一人の人間の中には神の子としての輝きを秘めています。たとえ罪によって、その輝きがかすんだり、けがれによって清さを失うとしても。第一朗読にあるように、聖所に来られる待望された神からの使者、主イエス、は清さを失った私たちを再び清めてくださるのです。「彼は精錬するもの、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く」。神の子が人間となったことによって、一人一人の人間の中に秘めている神の子としての輝きを取り戻すことが出来るのです。その輝きを保つために私たちに求められるのは自分自身を常に神の前に捧げることです。