メッセージ - B年 四旬節

 

第一朗読:歴代誌下36,14-16.19-23

第二朗読:エフェソ2、4-10

福音朗読:ヨハネ3、14-21

 

唯一の神はユダヤの民を愛している。この愛には限りがなく、終わりがない。神に対してユダヤ人の長や祭司、市民などが犯した様々な罪をもってしても、この愛を終わらせることはできない。しかし、ユダヤ人の罪には結果が伴う。それはユダ大国が独立を失うということである(歴代36,21)。ユダ大国の国民は預言者の声を無視し、モーセの律法に注意を払わなかったからである。大国の独立を失うことは神からの罰であったが、永遠の罰ではなく、悔い改めることができるまで続く罰であった。四十年間の後、バビロニアの隷属が終わった。そのとき神はメシアとしてペルシア大国の王キュロスを送り、ユダヤ人を開放した(歴代36,22)。それはユダヤ人に対する唯一の神の愛の証であった。

唯一の神は全てのキリスト教徒を愛している。罪によって心が死んでしまった人間は(エフ2,1-3)神の子イエスキリストの受難、死と復活によって再び人間に生きた心を与えられた。ただしそれはイエスを信じている人々のことである。しかし、それだけではなく、キリスト者はイエス・キリストによって救われた者(エフ2,5.8)として天国にイエスと共に存在することが定められた。それは行いによってではなく、全て無償の神の賜である。それはキリスト者に対する唯一の神の愛の証である。

唯一の神の愛に注目する福音者ヨハネは今日の福音朗読の部分にさまざまな神の愛の証を表わしている。まず、イエスは私たちの救いのために自分の命を捧げた(ヨハネ3、14)。イエスを信じる者は、イエスによって救われた者である(ヨハネ3、15)。イエスの業は唯一の神の救いの計画のうちで、最も大切な部分である。信仰によってイエスの信者になったキリスト者は、光のうちに歩いている。この光は希望である。それはどのような希望だろうか。この世に来られるイエスの目的は、人間を裁くことではなく、人間を救うことだという希望である。イエスは愛である。神は愛である。イエスの業は人間に対する唯一の神の愛の証である。