メッセージ - B年 四旬節

 

朗読: 第一朗読 イザヤ50:4-7

第二朗読 フィリピ2:6-11

福音朗読 マタイ27:11-54

 

第一朗読に、預言者イザヤは、異国の地で強制労働に明け暮れた末、シオンの町に帰還した民に向かって、「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」と告げました。疲れ果てた民を励ます「神の僕」とはいったい何ものなのか。自分を打とうとするものに背中を任せ、ひげを抜こうとする者に頬を任せ、顔を隠さずに、嘲りと唾を黙って受けるこの「僕」とは、いったい誰なのか。何のために?また、全てを耐え抜く力はどこから来るのだろうか。

マタイ福音書の受難物語はその答えが教えてくれるのです。マタイにとって、イエスこそがその忠実な「神も僕」である。ピラトの前に、侮辱されて、いつわりの証言で訴えられても黙っていたイエス。着ているものがはぎ取られて、侮辱の赤いマントを着せられても黙っているイエス。叩かれ、唾を吐きかけられても、黙っているイエス。預言者イザヤが語っている忠実な僕はモーセやその他の預言者ではなく、預言者イザヤ自身でもなく、「神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わないイエス」にほかなりません。

しかし、なぜ神の子イエスが人間となって、しかも十字架の死に至るまで自分を無にしたのだろうか。その答えは一つしかない:人間を救うため。罪の暗闇の中に閉じ込められている人間を救うため。自分ではもうどうしようもできない私たちを救うために、イエスは十字架の上で自分の命を明け渡したのです。息を引き取られる前に、イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びました。この叫びの中に、イエスが耐えた苦しみがその極みに達したことが分かります。それでも、イエスは十字架を捨てることはなかったのです。人々の期待通りに十字架から降りて自分を救うことのできるものが「神の子」ではありません。イエスの死から言えることは、死なないものが「神の子」ではなく、人のために死んで復活するものが神の子なのです。