メッセージ - B年 復活節

 

朗読: 出エジプト12・1-8,11-14

一コリント11・23-26

ヨハネ13・1-15

 

聞いた話ではありますが、私の故郷インドネシアのフロレス島のとある田舎の教会での聖木曜日の洗足式の時に、主任司祭は参列した信者の中から適当に子供から老人まで12人を選んで、彼らの足を洗いました。順番に一人一人の足を洗って、最後の人の番が来ました。普段教会にあまり来ていない一人の老人でした。司祭がしゃがんで老人の足を洗おうとする時に、彼は自分の足を引いて、手を差し出しました。足ではなくて、手を洗うように合図しました。素朴な老人は、普段も裸足で生活し、その日も3キロ離れた村から裸足で歩いてきました。自分の汚い足を主任司祭が洗うのはどうしても抵抗があったようです。ミサ中で、皆が見ている前で老人を説得する時間がなかった主任司祭は老人の手を洗いました。

最後の晩餐でイエスが洗ったのは弟子達の足です。手や頭、体の他の部分ではなく、足です。いつも地に着いた足です。赤土でホコリが立ちやすいパレスチナでは、なおさらのことです。そのため、当時のオリエント社会では、旅をした人や宴会につく前に客の足を洗う習慣があったのです。とは言え、足洗は奴隷がやることです。弟子たちにとって、師であるイエスが自分たちの足を洗うことは異例なことで、それに抵抗があって当然です。「先生が私の足を洗うなんて、とんでもないことです」とペトロは強く反発しました。しかも、その時にペトロが使っているギリシア語の表現は、モノゴトを否定する時の最も強い表現、神に誓う時にも用いられる表現です。「神に誓って、何があっても、永遠に、絶対にあなたが私の足を洗うことはない」というニュアンスでペトロは自分の足がイエスに洗われるのを強く否定しました。しかし、イエスはペトロを説得しました。「あなたの足を洗わないなら、私とあなたとは何のかかわりもないことになる」。正確には、「私があなたの足を洗わないなら、あなたは私から何の遺産も受け継がないことになる」。イエスが言う「遺産」とは永遠の命です、十字架上で示されたイエスの愛です、ゆるしです。ペトロがイエスから受け継いだ遺産、それはペトロが自分の弱さから立ち上がるために不可欠なイエスの愛です、ゆるしです。

そうです。人間は愛されることで愛を学び、ゆるされることで人を赦すことを学び、成長していくのです。残念なことに、私たち人間の互いへの愛とゆるしはいつも限界があります。私たちがお互いに自分の最も汚い部分を人に触れてほしくない、人に知られたくないです。愛を失うこと、赦してもらえないのが怖いからです。自分の汚い部分をさらけ出せるのは、無条件に受け入れてくれる、無条件に愛してくれる人にしかできません。私の最も汚い自分を無条件に受け入れてくれる人だけが本当の意味で私の足を洗う人です。本当の意味でホコリにまみれた弟子たちと私たち一人一人の足を洗うのは主だけです。主は清くならないユダの足でさえ洗ってくださったのです。パン切れを受けてから、背中を向けて暗闇の中に出ていったユダの足でさえ主は洗ってくださったのです。

主に洗われたものとして、主に無条件に愛されたものとして、主にゆるされたものとして、主に生かされたものとして、私たちも主の模範にならい、互いに足を洗い合う、弱さや足りなさを含めて互いに認め合う、互いに許し合う、互いのために日々生きていく決意を新たにしたいものです。