メッセージ - B年 復活節

「復活徹夜祭はすべての徹夜祭の母である」と言われます。イエスの十字架と復活を、そして私達の死と復活の先駆けとなるこの喜びの神秘を、毎週の主日ごとに祝いますが、今夜、私たちは、一年に一度の機会に、荘厳に祝うためにここに集まっています。

聖書の記事は、特にイエスの受難と復活のメッセージは、何か客観的な情報を伝えようとするものではありません。四つの福音書は、それぞれの仕方で、イエスの受難の出来事を記しています。受難の記事は、初代教会の信仰生活に中で練られ形成されてきたメッセージです。それは過去の話だけでなく、どの時代にあってもキリスト者の苦しみと希望の中で力となってきたメッセージです。もっとも、十字架と表裏一体である復活という出来事は、十字架死とは異なって、私たちの日常の経験を超えた出来事であるので、厳密な意味で言葉にすることはできません。しかし、逆に、いろいろな表現の仕方が可能であるし、また多様な表現が必要と言うことになります。「キリストが復活しなかったのなら、あなた方の信仰は空しく、あなた方は今なお罪の中にいることになる・・」(1コリ15,17-19)。キリストの復活の出来事は、私達の喜びの信仰の中心です。人生、生と死に意味を与えるものがキリストの復活である、と言うことが出来ます。無意味に私たちは耐えることが出来ません。生きる方向性なしに私たちは生きることが出来ません。

 

イエスがこの地上に姿を一瞬顕し、そして、人間の視界から去って、2000年が過ぎました。時代は変わりました。しかし、人間は共に生きていこうとするときに生じる様々な問題は、基本的に同じような様相を呈していると言えそうです。出会いや別れや、信頼や裏切りや愛や憎しみや、真実と虚偽の交錯する世界。衣食住が満たされず人間としての尊厳が奪われている世界がある一方で、ものが満ち足りているがために、かえって別の深刻な問題を抱えている世界に私達は生きています。イエスもそのような現実の中を生きました。

イエスは、通常のラビとは異なっていました。通常の仕方で聖書を解釈するようなことはありませんでした。自分の言葉で語り、特に困難にある人たちに語りかけていきました。「あなたの罪は許されています。安心していきなさい」「あなたは自分の足で歩けます。勇気をもって立ち上がりなさい」誰彼の区別なく、関わる人々にご自分を差し出していかれた。権威を持った自由な行動発言にその社会の指導者たちはつまずきました。「安息日」の掟に象徴される律法をも超えていきました。彼はとらえられ、十字架刑に処されました。

「木にあげられたものは神に呪われたもの」と言う聖書の言葉に従って、イエスが語ったこと行ったことがすべて無効であると宣言するために、彼らはイエスを十字架につけました。 これですべてが終わったかに見えました。

 

誰をも裁かず、誰に対しても恨みを抱かず、真実を語り続けた方を人間が十字架につけました。これはたんなるひとつの「犯罪」と言うようなことではなく、人間が本当に人間らしく生きていこうとするときに、ほかならぬ他の人間がこれを抹殺してしまう。また、それを傍観する、と言う構造。これが罪ということの本当の正体かもしれません。この根源的な罪が清算されない限り、この世界に救いと平和はありません。神はイエスによってこの解放を宣言されました。十字架は問いです、神のみが答え得ると問です。そして、神はイエスの復活によって、これに応えられました。

 

イエスの十字架死に衝撃を受けた、まさに、打ち砕かれた弟子たちに根本的な変化が起こりました。イエスは高く挙げられた、神はイエスを死者の中から立ち上がらせた、イエスは生きている…そして、私たちのために死なれたイエスは今生きている、という言語化がなされます。「私たちのため」と言い方には、二つの側面があります、一つは「私たちのせいで、私たちの責任で」死なせてしまった、もう一つは「私達が生きることが出来るように、本当に生きることができるように」という側面です。そしてその体験が自分たちだけのものではなくて、すべてのひとに関わりあるできごと、喜びの出来事として理解されていきます。これが宣教の始まりとなります。

 

キリスト者の生き方は「イエス・キリストの死と復活の参与する生き方」であると言われます。パウロのローマの教会への手紙で朗読された洗礼の出来事。闇から光への以降、死から命への過ぎ越し。これを私たちは先ほど光の祭儀で祝いました、復活賛歌では、イエスが根源的な罪に打ち勝ったという宣言が、旧約聖書の用語言い回しで歌われました。

四の聖書朗読では、イエス・キリストの至るまでの救いの歴史の思い起こしがなされました。その歴史は、今もこうして私たちに引き継がれていきます。

私たちは例外なく、神から神の下へ戻るのだ、ということを信じています。どのようにして、どのような実りを携えて戻るのかは私達の課題となっています。

 

モーリャックの墓碑銘にこう刻まれているそうです。それは素朴な信仰を表しています

 

「私は幼こころに信じたことを今もそのまま信じている。人生には意味がある、行先がある、価値がある。一つ分お涙も、一滴の血も決してわすれられることはない、神は愛なのだから」

 

この後、洗礼の更新が行われます。洗礼が決して安価な恵みではないこと、そしてその恵みが私たちに、イエスの命を世にもたらしていく喜ばしい使命を与えるものであることを、言葉と記し持って宣言いたしましょう。