聖書が教えるカテキズム - 聖書が教えるカテキズム

 

 

序. キリスト教の信仰宣言は、至聖なる三位一体(父と子と聖霊) の神様を信じるという信仰告白です。「使徒信条」の第1箇条は、「天地の創造主、全能の父である神を信じます。」という内容を持っています。「ニケア・コンスタンチノポール信条」は、「わたしは信じます。唯一の神、全能の父、天と地、見えるもの、見えないもの、すべてのものの造り主を。」となっています。前回は、神様は御父と御子と聖霊であっても唯一の神であるという信仰内容についての講話でした。この度、三位一体の第一ペルソナ(位格)である御父を信じることについての講話となります。

聖書が啓示する神様は、造り主であるゆえに「父」であるという特徴があります。旧約聖書の「モーセの歌」の中で神様を「父」(申命記32章6節)と呼びます。しかし、ユダヤ教は、どんな被造物も神ではなく、また神としてはならないから、人間に過ぎないイスラエルも、被造物の次元を超えて神様の子どもであるかのように、神様を「父」と呼ぶこととは、冒瀆として考え、許されていませんでした。ところで、新約時代に、イエス・キリストの教えに従って、キリスト信者は、様々な意味で神様が「父」であることを理解し、「父である神を信じます」と宣言します。

 

1.「創造主なる全能の父である神」

創世記は、神様はすべてのものに先立って、すべての存在の源であり、すべての存在と命は神様によってあることを、世界創造物語を用いて伝えます。以下に人間創造についての箇所を引用します。

 

神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、とされた。神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。(創世記1章24節~31節)

 

1)全能の創造主である父

以上の聖書の箇所は、第一創造物語の六日目の創造の業を一部紹介しています。この創造物語の全体(創世記1章3節~31節)は、神様が一日目に光を、二日目に大空と水を、三日目に海と陸、また地に生える草木を、四日目に太陽、月と星を、五日目に鳥と魚をお造りになったと書かれています。各創造の御業を行われるにあたって、創世記は、「神は言われた」、「そのようになった」、「神はこれを見て良しとされた」という言葉が繰り返されています。これらの言葉は、神様が宇宙万物を無からお造りになった全能者であることを示し、神無しに造られたものは、何一つないということを教えます。すべてのものは、神様の愛の溢れるところから創造され、神様の内に存在し、神様はすべての存在を支え、親のような者(父)であることを示します。神様は、「あれ」と言われたものの中で、足りなかったものは何一つなく、失敗したものも何一つありません。すべては「極めて良かった」のです。したがって、教会は、神様が天地万物の主、また歴史の主として全能者であるとことを信じ、そして、目に見える宇宙万物と目に見えない霊的な世界の造り主として、かつ、その中のすべての命の源として、「父」であることを信仰告白します。

 

 

2)人間が体験する全能の父

「全能」は神様の本質であって神秘でもあります。人間は、無限の愛と限りがない憐みを体験する時に、御父は「全能」であると信じるようになります。信じようとしない者の目には、御父の全能が無力なものとして映ります。しかし、神様は、その御子の十字架の死によって無限の愛を現し、罪と死に対する決定的な勝利をおさめた全能者であることを明らかにしました。自分の無力と貧しさを知る謙遜な人、信頼の内に神様に自分を委ねる人は、神様の限りない偉大さを体験することができます。

神様の御告げに対して聖母マリアは、「どうして、そのようなことはありえましょうか。」(ルカ1章34節)と言って、ありのままに自分の無力を告白しました。その時に天使ガブリエルが、「神にできないことは何一つない。」(ルカ1章37節)と伝え、これを信じて受け入れたマリア様は、神の子を宿し、神様の全能を誉めたたえて歌いました。「わたしの魂は主を崇め、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこのはしためにも、目を止めてくださったからです。今からの後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう...」(ルカ1章47節~48節)と。

御父は御自分の「全能」を見せびらかすことも、力を持って私たちに圧迫を与えられることもありません。神様の「全能」は、謙遜な人や小さなものの中で現れ、愛の内に御自身を与え尽くすことに本質があります。例えば、天地万物の造り主である神様が、被造物である小さな人間の幼子となり、馬小屋での最も貧しい誕生を迎えたことに神様の偉大さがあります。それは、全能者しかできない人の思いを遥かに超える偉大な業です。羊飼いたちに御降誕を知らせた天使たちは、この偉大さを「栄光の賛歌」をもって誉めたたえます。「いと高き所には栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ22章14節)と。私たちも天使たちに従って御父の「全能」を生涯、賛美することが一番尊い大切な務めであると教会は教えています。

 

2.「御子イエス・キリストの父である神」

イエス・キリストは、神様の本性を持つ御方として、神様を「父」と呼ばれました。以下に引用する聖書箇所は、キリストと御父の関係を描きます。

 

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハネ14章9節~11節)

 

上記の聖書の箇所によりますと、キリストは、人間の次元を超える者として神様を御自分の父と呼び、御自身が御父の内におられるということを弟子たちに教えてくださいました。また、別の箇所では、キリストは、「アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」(ヨハネ8章58節)と言われ、人間としてベツレヘムで御降誕なさる前に、即ち、永遠の昔に神様から御生れになったことを促しています。そして、キリストがヨルダン川で洗礼を受ける時、また、タボル山で御変容なさった時に、御父御自身がイエス・キリストについて証ししました。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3章17節・17章5節)と。同じ意味で、神様は御子キリストの真の父であることを私たちに現してくださいました。

イエス様は、真の神の子として祈りの時に、「天地の主である父よ、あなたを誉めたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」(マタイ11章25-27節)と祈りました。したがって、教会は、ニケア・コンスタンチノポール信条の中で、イエス・キリストは造られえることなく、永遠の昔から(初めから)御父からお生まれなったので、神様はその神性の次元でイエス・キリストの父であると宣言されています。

 

3.「恵みによる私たちの父である神」

人となった神の子イエス・キリストは、神様の子どもとして相応しくない私たちに勇気を与えて、相応しい者になるために、大胆に祈りの内に神様を『父』と呼ぶように薦められました。以下に引用する福音箇所にしたがって、教会は「主の祈り」を唱えて、神様を「父よ」と呼ぶようになりました。

 

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカ11章1節~4節)

 

1)神様を「父」と呼ぶように教えるキリスト

人間は、神様から生まれたのではなく、本性によって神様の被造物に過ぎず、また罪深さのためにも、自分のことを「神の子ども」と呼ぶ資格はありません。真の神の子、イエス・キリストの恵みによって、私たちは上記しました聖書に書かれている「主の祈り」の文を唱える時に、神様を「父」と呼ぶことができるようになりました。山上の説教(マタイ5章~7)の中で、キリストは、私たちに神様のことを自分の「父」として考え、愛するように薦めます。または、神様こそ、私たちの「父」ですから、この世の中で誰をも父と呼んではいけないという言葉をつかって、「あなたがたの父は天の父御ひとりだけだ。」(マタイ23章9節)と言われたのです。

祈りも、善行(施し)も、断食も、人目につかないようにと注意してくださいます。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6章6節)と繰り返して言うのです。神様は親(父)のように、空の鳥を養い、咲く百合の美しさを極めるから、これ以上に、人間を愛することを強調します。神様を父と呼ぶために、わたしたちは、神様の子どものように生きる必要があります。キリストは、「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタイ5章44節~45節)と言われて、不動で無条件の愛によって、天の父に似る者となるように教えます。そして、キリストは神の子どもと呼ばれるに相応しい生き方を送るように、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全なものになりなさい。」(マタイ5章48節)とお薦めになったのです。

人間がキリストのように「神の子」になることではありません。復活したキリストは、マグダラのマリアに次の言葉を伝えました。「わたしの父であり、あなたたちの父である方、また、わたしの神であり、あなたたちの神である方のところへわたしは上る。」(ヨハネ20章17節)と。ここに、キリストは、「わたしたちの父」とは言わずに、「わたしの父」と「あなたたちの父」を意図的に区別して表現します。御父から御生れになった御子は、神性の次元で「親子」としての完全な交わりです。ところで、被造物である人間は、御父の憐れみと愛の惠みによって三位一体の交わりに加えることができます。使徒パウロのローマの信徒への手紙の中で記されているとおり、洗礼を受けた信者は、「神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と叫ぶのです。」(ローマの信徒への手紙8章15節)こうして、この地上で人は信仰の祈りの内に神様と、「親子」のような親密な関係を作ることができます。

 

2)神様が人間の父となる御摂理

神様は被造物である人間を御自分の子にしようと、初めから御計画なさったのです。創世記が描いている「神と人」の関係は、「親子」らしいの関係を促しています。神様は良い父として啓示されていますが、人間の方は、神の子どもらしくない態度を示していると聖書に書いてあります。

即ち、第一創造物語(創世記1章)は、子が親に似てすべてを無償に頂くように、神様は、愛を込めて人間の存在を望み、御自分に象り似せてお造りになり、祝福してすべてを無償にお与えになりました。第二創造物語(創世記2章)は、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2章7節)と記されています。

人間は、肉体と霊魂からなりたっている一つの存在者であり、その独自の本性の中に霊的世界と物質的世界とが一つになっています。神様から命の息を受けた人間は不滅の霊魂を持ちます。人間の命を指す霊魂は、生んだ親から頂く命の遺産ではなく、直接神様によって創造され、神様と親しい交わりができるペルソナ(人格)に創られるのです。こうして、見える被造物の間で、ただ人間だけが自分の創造主の愛を知り、愛することができます。ペルソナ(人格)である人間は、自分を所有し、自由意志を持って自分と他人を知って人格的な交わりができ、創造主と親密な関係を作り、親子のように愛において一つに結ばれて生きることができます。

 

3)陥落した人間に対する御父の無条件である完全な愛

神様は、変わらない愛を持ち、神の子とする聖霊を人に注いでおられます。愛がペルソナの自由意志による行為ですから、人間は、神様を自分の父と認めて聖霊を受けるかどうかは、自由があります。創世記のアダムとエヴァの物語の中で聖霊を受ける象徴は、「命の木」とし、それを拒否することは、「善悪の知識の木」が象徴します。神様は、良い「父」として、人間に警告を与えます。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2章17節)と。しかし、人間は、その恵みによって神の子どもとする御心を拒んで、傲慢になって自らの力で神のようになることを選択しました。禁じられた木から実を取って食べたことは、その象徴です。(創世記3章)こうして、人間は自ら神様との絆を自由意志の濫用によって破り、自分を命と存在の源から自分を遠ざける者にしてしまいました。

離れて死ぬ危険にある子どもの親のように、神様は、罪を犯した人間に対して憐れみと慈しみを示し、アダムを探し求めて、「どこにいるのか」(創世記3章9節)と呼びます。また、エヴァに、「何ということをしたのか」(創世記3章13節)と尋ねます。人間の罪によって歪曲された神様のイメージは、世々にわたって人類に罪を犯すキッカケとなりました。人類の本性に傷を与えたその罪は「原罪」と言います。人間は、誘惑者(悪魔)が薦める偽りの善に誘惑され、神様を恐れて、神様の愛が分からなくなりました。そのために罪を繰り返し、その結果として苦しみと死に遭遇するものとなりました。

罪を犯す人間に対して、神様は罰をくだすことなく、「父」としての無条件で完全な愛と憐みを示して、罪と死から救いの計画を立てました。その計画の頂点は、神の子イエス・キリストによる救い業の実現です。イエス・キリストは御父の啓示です。人類は、キリストを見て、歪んだ神様のイメージを正すように招かれています。キリストの死と復活によって実現された救いの恵みに与るために、私たちは洗礼の秘跡を受ける時に、原罪の重荷から解放され、「神の子」とする聖霊を頂いて、真の神の子キリストとの一致の内に、主の教えに従って神様に向って、「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶことができます。