メッセージ - B年 年間

マルコ福音書はもっと短い福音書ですが、奇跡物語で彩られているという点で、また、イエスを「驚くべき存在」として生き生きと描いている点で特徴的です。今日のテキスト(マルコ、7,31-37)は、耳が聞こえずした舌の回らない人をイエスが癒される様子を伝えています。第一朗読は、通常、当日の福音書をよりよく理解させるための箇所が選ばれていますが、今日は、イザヤ書35,4-7aが読まれます。「舌の回らない人」という語が出てくるのは70人訳の旧約聖書でイザヤ書35章5-6節と新約聖書ではマルコ7章32節のみです。つまり、マルコでは、イザヤが預言した解放の出来事がイエスにおいて実現したという意味が伝えられています。また、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という表現には創世記の有名な箇所「神はご自身が造ったすべてのものを見られたが、それははなはだよかった」(1,31)が背景にある可能性もあります。要するに、イエスにおいて神による解放と救いが現実となって世界に開始された、というメッセージがここにも見られるということでしょう。

 

通常の奇跡物語と比べてみると、少々具体的過ぎると思われる動作をイエスはここで行なっておられますが、「けれども自分の世界、その無気力さのなかに閉じ込められている人に、他のどのような方法で心を伝えることが出来たでしょう。外界から遮断され,自分のうちに固く閉じこもっている人に対しては、肉体的なしぐさのほかにどのようにして愛を表現することができましょうか」(マルティーニ枢機卿)。それらのしぐさは、しかし、物見高い群衆からは離れたところでなされます。「天を仰ぐ」も奇跡を行うのは神の力であることの表現となっています。「深く息をつく」(嘆息する)も同様の意味を持つしぐさです。イエスを通して神の救いと解放の出来事が今ここに現実となります。

 

ところで、奇跡(ミラクル)は語源的に言えば、「小さな驚き」という意味を持っています。それは、より大いなる驚きに目を向けさせるきっかけとなる「小さなしるし」という風に理解できるでしょう。

ミサの中の「二つの食卓」にあづかりながら、いまここに、イエスによって私たちが、コミュニケーション、神との、隣人との、自分自身との本当のコミュニケーションを体験することが出来るよう祈りましょう。