メッセージ - C年 待降節

 

第一朗読:ミカ5,1-4

第二朗読:ヘブライ10,5-10

福音書:ルカ1,39-45

 

この世を旅するキリスト者たちは、イエス・キリストによって救われた神の国の民として聖霊のうちに生き、キリストの言葉に従っていつも再臨を待っているので、この時代が終末的な時であるという強い確信を持っている。来臨を待つ間も、私たちは日々普通の生活を営み、心の中で神の不思議な業を思っている。そして、二つの「愛」の掟に基づいて隣人と関係し、唯一の神に感謝している。まず、神の子は人間の体をもつ幼子としてベツレヘムの町(ダビデの町とよばれる)に、予言者の言葉のとおり(ミカ5,1)、神の救いの計画を実現するために生まれた。始まりがなく限りもない神は、始まりがあり限りのある人間となり、罪というただ一点を除いて、人間と変わらない生活をし、自らの受難(ヘブライ10、10)により、罪の奴隷として存在する人間を開放した(ミカ5、3-4)。ユダヤ教の律法によれば、人間の罪を許す権利がある方は神だけであり(ヘブライ10,1-4)、自分の罪が許されるためには神にいけにえを捧げなければならないが、人間が救われるように(すべての人間のすべての罪が許されるように)イエスは自分の人間の体をいけにえとして捧げた。父である神の御旨を行うために、イエスは人間の姿を帯びてベツレヘムで生まれた(ヘブライ10、7)。このことが理解できるのは、信仰を持っている人々だけである。信仰を持つということは、聖霊のうちに生きることである(マルコ2、41)。それは神に感謝する人(マルコ2、42)、神の言葉を信頼する人(マルコ2、45)、神の業の前に頭を下げる人(マルコ2、43)を意味する。この様な人々は幸いである。