メッセージ - C年 降誕節

 

テーマ:「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」

 

ルカによる福音は、初めにイエス・キリストの誕生の次第を紹介し、そして、青少年時代について、「両親に仕えてお暮らしになった」(ルカ2,51)と書き記しています。本日の福音は、大人になったイエス様を紹介します。凡そ30歳になったイエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられました。その時からイエス様の人生は全く変わりました。青少年の時代のイエス様は、神の子、救い主の生き方ではなく、私たちと同じような人生を送っていました。保護者の聖ヨセフは、大工として、イエス様を自分の子供のように育てたので、少年イエス様に大工の仕事をさせたに違いありません。地域社会の人々も、きっと、イエス様が大工になることを期待していたことでしょう。しかし、洗礼の時に、神様がイエス様に、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたので、この瞬間から、イエス様は、人の思いではなく、神様の御心にしたがっての生き方に変えてくださいました。私たちは今日、主の洗礼の祝日にあたってそれを祝います。

カトリックの洗礼は殆ど、水の注ぎによって授けられています。それは、神様の子供とする聖霊の注ぎを表現する式です。ところで、原文のギリシャ語では、洗礼のことを「バプテスマ」と言います。それは、「浸す」、「沈む」や「つける」などの意味を持つ言葉です。いわゆる、それは今までの古い生き方を水に沈ませて終りにし、新しい出発をすることを促しています。キリストは、このことを種の例えをもって説明します。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12,24)と。人間は地上の生活の中で、洗礼によって自我に死に、神様の御心にしたがって神の国の一員となる恵みを受けます。キリストの洗礼こそは、私たちのために模範となりました。

人を愛するためにその期待に応えて奉仕し、自分を尽すことは、尊いことです。しかし、自己愛のためや人から誉れを受けるために、人間は、神様ではなく、この世の目を伺って悪にしたがって人生を送るようになります。もしかすると、何十年前に洗礼を受けた私たちは、この世の価値に誘惑されて何度も罪を犯して「古い自分」に戻ってしまったこともあるかもしれません。「古い自分」とは、人祖アダムとエヴァの罪の後遺症によって人間らしくない歪曲された自分です。アダムとエヴァの罪は、自我を優先にして神の愛と御心を拒んだことにあります。それは、彼らの恥となりました。その罪は世々にわたって、人間の本性に原罪という罪深さを負わせるものとなりました。「古い自分」は、アダムとエヴァのように自己中心で、傲慢のために自分を良く見せようと思って、優越感と劣等感を持ったり、嫉妬や恨みなどの罪に悩まされて、悪を行う者です。人から誉れを受けるために自分の悪い側面を隠そうと思って、私たちは、「偽りの自分」を作り上げます。その偽りが暴露してしまうことを常に恐れて、不幸な生活を送るようになってしまいます。

主の洗礼の祝日は、洗礼の時からキリストが御父のみ旨にしたがっての「新しい人」となられたように、私たちの一人ひとりが洗礼を受け、自我に死に、「古い偽りの自分」を終わらせて、御心に適う「新しい自分」を三位一体の交わりの中で作り上げ、神様の愛と平和の内に幸せに生きるような、神の子どもとしての人生に招くお祝いです。