メッセージ - C年 年間

 

この主日に朗読される福音(ルカ7,36-50)は、イエス様がファリサイ派の人の家に招かれて食事の席に着かれた時に、罪深い女がやって来て涙で彼の足を濡らして自分の髪の毛で拭い、接吻して高級の香油を塗った出来事を描いています。ファリサイ派の人は、イエス様が神様から来られた預言者なら罪深い女を追い払ったはずだと思い込んで、キリストを不審に思っていました。

真面目に働く人に報い、働かない人を辞めさせること、義人を誉め、悪人を罰することは社会常識になっています。自分に親切な人を愛し、失礼な人に対して反感を持って遠ざけることも人間の常識とも言えるでしょう。しかし、このような世間的な価値観を神様に当てはめることは大変な間違いです。神様は、義人を天国へ、罪深い人を地獄へ送ろうとする方ではありません。本日の福音が紹介するファリサイ派の人は、このような過ちを犯しました。

神様の愛と慈しみは、私たちの行いによって変わることなく、私たちに無償で無条件に与えられるものです。私たちが神様を愛したから、神様は私たちを愛してくださったのではなく、神様は先に私たちを愛し、罪深い私たちをイエス・キリストの十字架の死によって赦してくださったのです。自分が義人であると思ったファリサイ派の人は、神様に罪の負債がないと思い込んで、キリストに対する小さな親切だけを表します。罪をたくさん犯した女は、すべてを無償に赦された喜びから、キリストに対する大いなる愛を示しました。したがって、キリストは、ファリサイ派の人に、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」と仰いました。

私たちは、自分と他人の罪の重さを比較してはいけません。なぜなら、罪によって人類の本性が傷つけられているので、誰であれ、大変な罪を犯す危険にさらされているからです。大切なのは、人間の罪深さに目を向けることなく、神様の愛、恵み、慈しみと赦しを見つめて、それを心に留め、喜びと感謝の内に生きることです。特に信者は、洗礼の恵みを受け、罪を取り除いて永遠の命を頂き、御ミサに参加して永遠の命の糧に養われている恵みをたくさん生きているはずです。天国は地上で稼いで得るものではなく、神様の救いによる恵みです。この恵みに与るために、神様の愛に応えて愛を実践して生きることは、信仰生活の最も大切な側面です。

神様の愛に応えずに悪事を行うなら、救いに与れない恐れがあります。私たちは神様に愛されたから愛することができるので、不完全な人間の常識を超えてキリストに倣い、相手の善悪に関係なく、すすんで人を愛して無償の愛で人を赦すように招かれています。