メッセージ - C年 年間

テーマ: 「善きサマリア人の例え話」

キリストの「善きサマリア人」の例え話は、エルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われて半殺しにされた人が、ユダヤ教の聖職者である祭司とレビ人によって助けられることなく、ユダヤ人の敵と見なされていたサマリア人によって救われたことを紹介します。この福音の目的は、慈悲深い者になるように教えることより、「何をしたら永遠の命を受け継ぐか」という律法の専門家の質問への答えです。

律法の専門家は、聖書から答えが分かっていましたが、イエス様を試すために質問しました。だから、キリストは、あなたが聖書を読んでいる通りであるとお答えしました。その答えは、「愛の掟」を二つ守ることです。即ち、すべてを尽して神様を愛すること、隣人を自分のように愛することです。この点については、イエス様と律法の専門家の考えが一致しています。しかし、次の「わたしの隣人とは誰ですか」という律法学者の質問は、両者の心が極端に違うことを示しています。

律法学者たちは、律法を守らない罪人が神様に嫌われている敵であると見なして、彼らを憎むことが正しいと思っていました。福音の律法の専門家は、周りの人が律法を破るから、誰も隣人だと思いませんでした。「隣人を愛し、敵を憎め」という伝統的な教えに対し、キリストは、「敵を愛しなさい」(マタイ5章44節)とお教えになりました。

福音の祭司とレビ人が律法を守っても、永遠の命を頂く保証はないとイエス・キリストは指摘します。よって、ユダヤ人の聖職者である福音の二人は、自分の都合に合せて聖書を解釈して、汚れるからと思って怪我人を隣人だと認めることなく、愛の欠如のために永遠の命を受け継ぐことができない状態にあります。しかし、異邦人のサマリア人が律法を知ることも守ろうともしないのに、永遠の命を受け継ぐことができるとイエス様は証明しました。なぜなら、彼は敵の国の人をも、自分のように愛する実践によって隣人関係を示しました。

現代に生きる私たちは、律法学者のように自分を正当化しようとして、決めた祈りをしたり、守るべき御ミサに与ったり、掟を守もったりするからと言って、これだけで永遠の命を受け継ぐと思ってはいけません。

「わたしの隣人とはだれですか」という質問によって、永遠の命への道を見出すことができません。なぜなら、その質問をする人は、自分を愛する人を捜しますが、自ら誰をも愛していない状態を表します。キリストは、律法学者に薦められたように、私たちの一人ひとりにも永遠の命を受け継ぐ方法を教えてくださいます。それは、次のような質問をいつも自分に言い聞かせることです。

「わたしは、出会うすべての人の隣人になっているか。」と。