メッセージ - C年 年間

テーマ: 「御父の慈しみ」

本日の福音(ルカ15章1-32節)のイエス様はユダヤ教の指導者たち、当時の聖書学者とファリサイ派の人々から批判を受けます。イエス様は、罪人を迎えて一緒に食事をしたからです。彼らは、律法に書かれた掟を破った罪人が神様の罰のもとにあると思い、また罪人と交わる義人も罪人と同じく汚れた者になると決めつけたからです。この批判に対してイエス様は、掟を守ったように見えても、神様の御心に従わない人も神様から離れていると教え、また神様の愛は人間の思いを遥かに超えていることを三つの例えを用いてお話しになりました。

その一つ目は「見失った羊」の例え、二つ目は「無くした銀貨」の例えです。イエス様は神様の御心を良い羊飼いに比べておられます。迷える羊を命懸け捜している羊飼いのように神様は、無条件の愛をもって人生を迷った罪人を捜し、99人の義人よりも回心した一人の罪人の方を大いに喜ばれると言います。また、十枚の中で一つだけの銀貨を無くした女は、これを見付けると友達と一緒に喜ぶように、一人の罪人が悔い改めれば、神様の天使たちの間に大きな喜びがあると説明してくださいました。

三つ目の例えは、一般的に「放蕩息子の例え」と言われています。この例えを最後まで読むと、「父が失った二人の息子の例え」というタイトルをつけたいものです。「放蕩息子」と呼ばれる弟は、父が死後に貰える遺産を、生きている内に直ぐ貰いたいという頼みは、当時のイスラエルの文化の中で、父に直ぐ死んでも良いと言ってしまったことを意味します。また、父に対して親孝行の義務を拒んだことになります。そして、女たちと遊んで財産をつぶしたこと、飢饉の時に異邦人の家で汚れた動物と見なされた豚の世話をすることは、父にとって最大な恥でした。弟は当時のイスラエルの社会で破門されたはずです。

しかし、イエス様は、天の父が人間の思いと遥かに超える偉大な方であることを教えてくださいました。神様は、人間の自由意志と思いを尊重し、願った恵みを与え、人間からどんな侮辱を受けても、ただ回心を待ち続け、どんなに重い罪を犯したとしても、悔い改める罪人を迎えるに走り寄り、愛しい息子として受け入れ、憐れみと慈しみを尽してくださる方です。失った弟は、見つけた息子になりました。

ところで、この例え話の兄は、父と共にいて、畑の仕事を忠実に行うように見えますが、その心は父の心と全然違うものでした。彼は、憐れみと慈しみ深い父を見て、家に入ろうとしませんでした。なぜなら、彼が持っていた父のイメージが違っていたからです。父が自分のように厳しく、罪を罰して赦せないはず者であると思っていたからです。彼のところにも父が走り寄って家に入るようにとなだめたが、残念なことに彼は、本当の父を拒んで失った息子となりました。

このようにして、「父が失った二人の息子の例え」は、私たちに神様について自分のイメージの「偶像」を作らにように教えます。神様は、私たちの思う通りの者になるわけではなく、私たちの手の中に左右される道具でもありません。むしろ、私たちは、御父のように憐れみ深い者になるように呼ばれています。迷う私たちが回心して、誠の神様を求めて御父に戻ろうとするなら、御父は先に私たちの方に走り寄り、愛しい子どもとして慈しんで迎えることでしょう。