メッセージ - A年 年間

愛には様々な形があります。先週はその厳しい面、つまり指摘を学ぶように招かれていました。人のためを思って、場合によってその人が聞きたくないことも言わなければなりません。愛に促されて。今日は、愛の違う側面、つまり赦しについて考えさせられています。キリスト者にとって本当に愛することは、うまくいっている時、お互い良いことをし合っている時だけの特権ではなく、いつどこでもの命法なのです。今日の福音のテーマです。

ちなみに、ゆるしを漢字で書くなら、「許し」ではなく「赦し」ですが、よく間違われています。他人の過ちを赦すことは、忘れて見過ごすこととか、無かったことにするとか、これからも同じようにさせてあげる(=許す)ことではなく、もっと深い行為です。言い換えれば他人を憐れむことです。その根拠はどこにあるでしょうか。何も必然的なことでもなければ、利益があるわけでもありません。(といっても、実は、赦すことは精神的に相手の教育・改心のためよりも、自分自身の癒しのために欠かせないのですが・・・)

赦さなければならないという理由はただ一つあります。神様もそうなさっているからです。正義の主であるにもかかわらず、寛容に富んでいます。福音では下役はただ返済の延期を願っていたのですが、主人は直ちに借金を全部帳消しにしました。これは下役にとって何ら期待できる権利ではなく、純粋は恵みでした。現在、誰が何の権利を持っているかと大声で呼ばわれていますが、それより大事なのは権利にもかかわらず人に親切をすることです。そうする時こそ、神様に似たものになることができます。しかし、「赦す」と「赦される」の間に循環がなければ、どちらも不可能です。