メッセージ - A年 年間

今日の福音の箇所(マタイ21:28-32)は、イエスがエルサレムに入って人々に迎え入れられ(21:10)、一方商人(21:12-13)や祭司長・律法学者たち(21:14-16)、民の長老たち(21:23-27)とは対立を深めていった、その文脈の中で語られたたとえ話です。ですから、たとえ話の中の「承知しました」と言いながらぶどう園に行かなかった弟が、ヨハネが伝える義の道に従わなかった彼らにたとえられているのがよく分かります。

たとえ話の中で、兄は「いやです」と答えましたが、後で考え直して出かけました。父親の「ぶどう園へ行って働きなさい」という言葉に「いやです」と言うのは、単なる否定の表明ではなく、明らかな父親への反抗です。それでも考え直して出かけていった兄の方が、「父親の望みどおりにした」と認められています。このように、私たちは、いつでも「考え直す」ことがゆるされています。

私たちが生きている現実の生活の中で、最初から、常に、父である神の呼びかけの言葉を聞き取って、理解して、それに「承知しました」と答えることは容易いことではありません。後から気づいて、「こうすれば良かった」、「ああするべきだった」、「あれは悪いことをした」、そう後悔することが多々あると思います。一回きりの出来事だけではなく、悪いと分かっていても、半ば習慣的になってしまって放ったらかしにしてしまっている怠りや過ちもあるかもしれません。今更変えられない、そう思ったり、あるいは第一朗読の言葉のように「主の道は正しくない」と自分に無理に言い聞かせていることもあるかもしれません。それでも「考え直す」チャンスは与えられています。

考え直して、全く反対方向に舵を切ること、逆転させることは難しいことです。けれども第二朗読でパウロが語っているように、「キリストは神の身分でありながら、自分を無にして、しもべの身分になられ」て、その生と死を持ってまったくの逆転の模範を示して下さいました。私たちも「逆転」を恐れず、いつも考え直して神に向かっていくことができますように。