メッセージ - A年 年間

神を愛し、そして隣人を自分のように愛するということは最も重要な掟です。しかも、両 者は切り離せないものです。ユダヤ人たちも、キリスト者たちもこの掟を知っているはず です。キリスト者としてはどうこの最大な掟を生活に持ち込むのか、また愛という掟の実 行の難しさという痛感や反省などについては別の機械にしてその代りにこの掟に対する偏 った二つの認識について考えてみたいのです。

一方ではかつて神の名に乗って掟、中で安息日を守るために、最も身近で困っている人を 拒否するファリサイ派や律法専門家の姿がしばしばでした。イエス・キリストは当時の指 導者たちの偽善な生き方に強く注意していました。ルカ福音書の中でいやしを必要とする 右手が萎えていた人の前でイエスは律法学者たちにはっきりその真実を打ち明けました 。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行 うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(ルカ6,9)と。他のところでファリサイ派た ちは『父と母を敬え』という掟に対して次のように論理しました。「もし、だれかが父ま たは母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え 物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と(マル コ7,11-12)。つまり、彼らの言い訳では、神を愛することで親孝行をもう既に済ませると いうわけでした。イエスは彼らの心を常に見抜かれました。神を愛するという理由で隣人 を無視するという傾向が他の聖書箇所でもたくさん見られます。よく知られる良きサマリ ア人の譬えもその一つです。何らかの重要な任務があったとして半殺しの者を後にして去 って行った祭司やレビ人のことは決して理解し難いです。イエスはそういった偏った心に 対して命をかけても譲りませんでした。この話は過去のものだけではなく、今日のキリス ト者のわたしたちも同じ傾きを抱いているかもしれません。神の愛を強調することでミサ や祈りなどを忠実に守っていながらも、日常生活ではどこかで言葉や行いにおいて最も身 近な兄弟姉妹のことを忘れてしまう可能性があります。

他方では、もしかつて神の名で人間のことを大切にしなかったのに対する正反対で、今日 の世界は人間の名を借りて神のことを無視している傾向が強くなる一方です。というのは 今日では、時には「自由」もしくは「人権」、「人間の尊厳」という名を借りて悪を行う 恐れがあります。当然的に「自由」や「人権」などは神の似姿で造られた人間の固有なも のです。決してカトリック教会はそれに反対する理由もないし、むしろそれらを鼓舞する わけです。しかし、今日では「人権」という理由で様々な犯罪のような決まりや規則が徐 々に現れてくるようです。恐れることに、神のことを否定するその表れは大変微妙でよく 注意しない限り分からないほどです。隣人を大切にすれば、宗教や教会などに参加しなく てもよいとか、教会に参加する時間を利用して家族や人々に施したほうがましです。さら に堕胎、性別選択、安楽死などなども基本の人権だともうたわれます。そういった選択は 本当に人間を大切しているでしょうか。それらの考えに賛同できない教会はたびたび非難 を受けています。神が存在する限り、人間は決して自由になれないという理論も少なくは ないでしょう。

もし定められた教会の規則を忠実に守るということで兄弟姉妹のことに関心をもっていな ければ、神を愛しているとは言い切れません。同様で人間のことに心をかけようとしても 、神のことを余計にしてしまえば、本当に隣人を愛するとも言えないでしょう。

真理の源である聖霊よ、識別の恵みを教会、そして世界に注いでください。アーメン。