メッセージ - A年 年間

年間という季節も少しずつ終わりに近づいて来ます。典礼暦年の終わりと関連づけて、ミサの朗読も世の終わりについて語っています。初期のキリスト教徒はイエス様の再臨が非常に近いことを信じていたことは知られています。その信念に促されて、財産を売り払ったり、利他的な慈善業に励んだりしていました。しかし、待ち焦がれていた世の終わりがなかなか来ないということから、色々な勘違いも生じてきました。ですから、聖書朗読に基づいて改めて考えると良いのではないでしょうか。

(1)最後の時は事実イエスの到来とともに既に始まっています。その完成は確かにこれからですが、遅れているのではなく、今だに来ないということは神の寛大さと忍耐強さのしるしに他なりません。

(2)終末は突然訪れます。何も予言や自然のしるしによって分かるものではありません。一番期待されていない時に来るかもしれません。そして逆に、もしメシアはここにいるのだと主張したり、自称したりする人がいれば、それは間違いであり、罠です。

(3)やがて終わりが来るということは、今何をしても結局意味がないという諦めに導くのではなく、また不安を与えられるのではなく、それが行動のための動機づけになります。パウロが言う「目を覚まして生きる」とはそういうことです。

(4)世の終わりは会計報告をする時でもあります。それぞれ与えられた才能、指名など異なりますが、それをどう管理したかについて報告を問われます。人よりも何倍働いたかどうかでも、たくさんの良い実りを残したかどうかでもなく、自分に授けられたタレントを(失くさなかっただけではなく)増やしたかどうかについて裁かれます。

(5)最後に、世の終わりはただこの不完全な宇宙から逃げて、より理想的な場所に移るということを意味しているのではありません。むしろ、全てが新たにされる、初めて神の創造のみ業が実現される、新しい天と新しい地がもたらされることを指しています。ただ魂が幸せに生きるのではなく、体も物質も聖化されます。

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