メッセージ - A年 年間

朗読箇所:

エゼ34:11-12, 15-17

1コリ15:20-26, 28

マタ25:31-46

「王であるキリスト」の祝日に読まれる三つの朗読は、イエスがどのような「王」であるのかをみごとに示してくれます。第一朗読では、バビロン捕囚に連れていかれたイスラエルの人々に、主は「自ら自分の群れを探し出し、彼らを世話をする」と約束されます。良い牧者として主は「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」。これは、捕囚の地に散らされたイスラエルにとっては何よりもの励ましの言葉に違いありません。しかし、同時に、主は「肥えたものと強いものを滅ぼす」と宣言します。これは、弱いものを犠牲にして、自分の利益だけを追及する人々に対する強い忠告のことばです。やさしい牧者は同時に雄羊と雄山羊を裁く正義の「王」でもあります。

福音朗読の最後の審判の譬(たと)え話の中の王は、自分の右側にいる者に「お前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と告げた一方、左側にいる者には「悪魔のために用意してある永遠の火に入れ」と宣言しました。この宣言を聞くと、一方では右側にいる人々に対する王のやさしさ、他方では左側にいる人々に対する王の厳しさが感じられます。しかし、自分は右にいるのか、左にいるのか、その運命は「王」に対するそれぞれの人の態度次第です。困っている人、飢えた人、渇いた人、旅した人、裸の人、牢にいる人、病気の人などを助けた人は、「王」ご自身を助けたことになります。彼らは、世の初めから用意されていた国を受け継ぐことになります。逆に、困っている人、飢えた人、渇いた人、旅した人、裸の人、牢にいる人、病気の人などを助けなかった人は、「王」ご自身を助けなかったことになります。「主よ、いつ私たちはあなたを助けたのか」という右にいる人々の答えから、彼らは良いことをしたのは自分たちに対する最後の審判を視野に入れて、その態度を取ったのではないことが分かります。ただ単に、苦しんでいる人を目の前にした時に、手を出さずにはいられないからです。しかし、正にこれが憐れみ深い「王」(第一朗読の「牧者」)、「主」ご自身の態度です。結局、この「王」と同じように、憐れみの心を持っている人だけが「王」が支配する国に入ることが出来るのです。善意は、天国に入るために行うものではないということです。

イエスはどのような気持ちでこの譬(たと)え話を語られたのでしょうか。話の中で審判を行う「王」は自分自身だということをイエスは自覚しています。このたとえ話を語ってから間もなく、イエスは十字架の死を迎えられます。使徒パウロが第二朗読に語っているように、イエスはご自分の死によって罪を滅ぼし、その死によって「すべての人が生かされる」ことになります。そうであるならば、この譬(たと)え話を語る憐れみ深い主は、最後の審判の時に、誰一人左側に行かないようにと願ってやまないことでしょう。「王であるキリスト」は、そのような憐れみ深い「王」なのです。

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