メッセージ - B年 待降節

待降節が始まり、教会の暦の上では新しい年になります。今年の朗読聖書のサイクルはB年です。

さて、私たちが待降節に「待」つのは、誰が「降」ってくることでしょうか。クリスマスというと、馬小屋の中で幼子イエスを囲む父ヨセフと母マリア、そしてお祝いにやってきた羊飼いと動物たちという、ただただ幸せな情景を思い浮かべて、何となくほのぼのとした雰囲気になってしまうのは当然かもしれません。しかし、待降節に読まれる聖書箇所をよく見ると、私たちは生まれたばかりのあどけない、しかし何もできない幼子のかわいらしい笑顔をただ待っているのではない、ということが分かります。

第一朗読のイザヤ書では、イスラエルが自分たちの罪のために滅ぼされ、捕囚の地に連れて行かれ、解放された後も荒れ果てた国で困難の内に生きている中で、神の救いを祈り求める姿が描かれています。

第二朗読のコリントの教会への手紙では、私たちがキリストに結ばれ、キリストとの交わりの内に、主イエス・キリストが再び現れるのを待ち望むけれども、そうできるのは、その「最後まで」主が支えて下さるからこそだといわれています。

福音朗読のマルコでは、イエスが弟子たちに「目を覚ましていなさい」と三回も繰り返しています。僕が責任を持たされているように、門番が目を覚ましているように、私たちも「気をつけて」、いつなのか分からない「その時」を注意して待ちなさい、そう語られています。

私たちが待つのは、十字架でその命をささげ、救いをもたらされたイエスです。苦しむ人の所に自分から歩んでいき、その苦しみを共に担われたイエスです。そして、私たちの終わりの時に再び来られるイエスです。私たちは、その到来を、主の招きに応えながら、困難の内にあっても自分自身も十字架を担いながら、いつ来るか分からない自分の終わりの時のために注意深く備えながら、静かに待ちます。

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