メッセージ - B年 年間

今日は年間第4主日に入りました。福音朗読では「神の聖者」として「権威ある新しい教え」を持ち、「汚れた霊」を追い出したイエス・キリストの姿が描かれています。イエスを見聞きした人々は皆非常に驚きました。言うまでもなく、律法学者とは違ってかつてのないイエス・キリストの言動を語りながら、マルコは間違いなくイエスこそが預言され、神のもとから遣わされた者だと人々に促したでしょう。まずここで福音記者の促しを心に留めながら今日の福音書を眺めることが重要なポイントだと思います。


汚れた霊、悪霊の話を聞くと、肉体的にも精神的にも丈夫なわたしたちは「そんなに関係ない」と言い、一安心で済むでしょう。しかし、信仰の観点から悪霊という存在を考えていけば、事情が一旦に変わってきます。もし悪霊というものを神に逆らう勢力、信仰者たちを神から切り離そうとする存在としてとらえたら信者のわたしたちは悪霊とはもはや関係ないと言えなくなってしまいす。


もし悪霊は「神に逆らう勢力」であれば、目に見えない一人ひとりの中で働いている力は 様々でしょう。わたしたちのそれぞれはその悪の働きを実感しているはずです。見事に回心 した使徒パウロであってもその内なる悪の力を痛感しながらその経験を分かち合ってくます 。「わたし(パウロ)は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず 、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律 法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、 もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つ まりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はあり ますが、それを実行できないからです」(ローマ7,16-18)。


では、その悪の力は具体的にいったい何かと。また使徒パウロによれば、それは、「姦淫 、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い 、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」です」(ガラテヤ5,19-21)。神に従お うとしているわたしたちは日々、それらの力と絶えず戦っているのではありませんか。しか も時には悪の働きがあまりにも強すぎて、抵抗することが出来なくなってしまいます。まさ にイエスの命令に対しても、悪霊が簡単に出て行ったのではなく、実際に「汚れた霊はその 人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」とマルコがその悪霊の力強さを語って います。悪と戦う時にもキリスト者のわたしたちもその「けいれん」を経験しているでしょ う。

第一朗読の申命記でも神は預言者を立て、彼らをとおしてイスラエルを戒めました。しかし、長い砂漠の道のり、そしてカナンに定住した後にも神に逆らう現われは決して弱くはなかったです。選ばれた民の歴史こそが自分たちの内での悪のた働きの強さが明らかになっているものです。


悪霊の働きの顔を再確認したキリスト者のわたしたちはどうすべきでしょうか。また今日の福音書がそれをヒントしてくれます。悪の力は強くてもイエスの命令、つまり神のことばに抵抗することが出来ません。み言葉こそが悪と戦うわたしたちの力になりますように。アーメン。

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