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2.灰や塵を伴う行為

前回は「灰」や「塵」が持つシンボルとして、比喩としての意味について聖書の記述から考えました。今回は、実際に灰や塵が使われている聖書の中の場面に注目したいと思います。灰を頭にかぶる、塵の中に座る、地面の塵の上を転がる、という灰や塵に関した行為が、旧約聖書の中ではよく見られます。また、これと合わせて、着ている服を引き裂く、髪の毛や髭をそり落とす、粗布をまとう、嘆きの声を上げる、祈る、断食する、などの行為も伴うことが多々あります。

まず、「灰/塵をかぶる」「灰や塵の上に座る」などの行為は、既に起こったか、これから起ころうとしている災難・悲惨な出来事に際して行われます。例えば、

敗戦の知らせを伝える伝令の兵士が「頭に土をかぶっていた」(サムエル下1:2)
逆に敗戦の知らせを受けたヨシュアと長老たちは、「地にひれ伏し、頭に塵をかぶった」(ヨシュア7:6)
国の中で反乱が起こったとき、逃亡したダビデは「頭に土をかぶっていた」(サムエル下15:32)
家畜や子供たちを失い、自身もひどい皮膚病にかかったヨブは「灰の中に座り」(ヨブ2:8)、彼を見舞った友人たちも「嘆きの声を上げ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまいて頭にかぶり、七日七晩、ヨブと共に地面に座っていた」(ヨブ2:12-13)
ハマンの策略でペルシャ国内のユダヤ人たちが迫害された時、「多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆に暮れた」(エステル4:3)
「我が民の娘よ、粗布をまとい、灰を身にかぶれ。ひとり子を失ったように喪に服し、
苦悩に満ちた嘆きの声を上げよ。略奪する者が、突如として我々を襲う」(エレミヤ6:26)

 

更に、このような災難を神の裁きによる罰と捉えて、灰や塵をかぶり、その上に座って、自分の罪を悔いたり神の憐れみを求めたりする場合があります。

預言者ヨナによる滅びの宣告を受けたニネベの王は、「王位を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」、人々にも断食を命じ、悪の道を離れるように呼びかけて、滅びを免れようとした(ヨナ3:6-9)
エルサレムの荒廃について、ダニエルは「主なる神を仰いで断食し、粗布をまとい、灰をかぶって祈りをささげ」、イスラエルの罪を告白して救いを求めた(ダニエル9:3-4)
悔い改めようとしない町々に向かって、イエスが「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」(マタイ11:21)

このように「灰をかぶる」「塵の上に座る」という行為の目的は、自分の惨めさや弱さを神の前に示して、あるいは謙虚さ、従順さ、へりくだりの姿勢を示して、神の憐れみを求めるという儀式的な行為でした。「私はあなたの憐れみがなければ、助けがなければ何もできず、みじめなままです。だから憐れんで下さい」という嘆きの願いを表していました。

現代の私たちも、四旬節の始めに灰を頭に受け、この祈りを自分のものとします。ただ「灰を受ける」あるいは四旬節に勧められる「断食」「節制」という行為自体に恵みがある訳ではなく、そこに心が伴わないなら意味がありません。
預言者イザヤは、既に語っています。

「お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう…そのようなものがわたしの選ぶ断食だろうか…頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それをお前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とは…虐げられた人を介抱し、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと」(イザヤ58:4-9)

「灰をかぶる」という行為に込められた意味を心に留め、正面から向き合いたくはない自分の罪や弱さを見つめ、神の前に素直に認めたいものです。四旬節は、このような自分のために主イエスは十字架の苦しみを受けられ、そして復活された、という恵みに感謝しながら、その恵みを与えられた神に立ち返る時なのです。

 

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