メッセージ - B年 四旬節

今日の朗読では、次の文が一種のキーワードとなるのではないでしょうか。

「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
そして、[…]御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となりました。」

ここでは二つの従順について語られています。完全なイエスの従順、とそれに学びあやかる私たちの従順。厳密に言えば、イエスが私たちのために神に「従う者となって」くださった(フィリ2:8)からこそ、私たちも神に従うことができます。直接ではなくて、(神を具現する)イエスに従うことによって、実は神に従うのです。私たちにはイエスを抜きにして神を拝んだり、神を賛美したり、神に祈ったり、神に従ったりすることは不可能です。しかも、イエスの従順を真似るのではなく、極みまで従順だったイエスと共に神に聞き従うということに招かれています。

イエスの招きに相応しい従順というのは、第1朗読でも触れられていた「古い法」のような外から課せられ、義務として与えられたものではありません。イエスの生きていたような「[神を]畏れ敬う態度」とは、心に刻まれた、誰も命じなくても自発的に為される態度です。何をするかを理解し、従順を求める人をよく知っていることが前提です。イエスと共に神に聞き従うことはただの義務や強制ではなく、愛されていることを意識した愛の行為なのです。そして、その結論として、イエスに従うことは同じ論理でいえばイエスが遣わす人に従うことにも繋がります。しかし、昔も現在もやはり教会においても民主化を求める人が絶えません。従順という非常にキリスト教的な徳がどこかに消えたようで、最後に残ってしまうのはただそれぞれの意見でしかないのではないでしょうか。

イエスが福音においても自分自身に対して求めている姿勢は、自分に仕えることでも、自分の仲間であることでも、自分と交流や意見交換をすることでもなく、「自分に従うこと」でした。すなわち、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」と。そこから、神との関係に生き、やがて神の家に住むためには、イエスと基本的に同様に(形はいろいろあっても)一粒の麦として地に落ちて、死に、またイエスに結ばれて再び芽生えるしかないことが分かります。

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