メッセージ - B年 復活節

復活節の第3主日の朗読の共通のテーマや点はいくつかあります。

まず、第一朗読においても第二朗読においてもイエス・キリストは「義人」「正しい方」と呼ばれています。また、「命への導き手」とか「弁護者」としての名称も出てきます。普通の凡人の理解と違って、イエスが正しい方であるのは、何か高い道徳的な基準を満たしたとか、非の打ち所なしに規則をことごとく遵守したからではなく、父のみ旨を果たしたから、また人々への(極みまでの)愛によって律法を実現したからなのです。考えてみれば、ユダヤ人によって受け入れられなかったばかりか、彼より強盗の方が優先されたという非常にドラマチックな描写まで為されています。それも人間としての特徴をよく表しているかもしれません、すなわち正しい人は多くの場合、同胞から除け者にされ、恨まれ、排除されがちだということです(ロマ5:7を参照)。

それから、第一朗読と福音朗読では、復活信仰の宣教という文脈の中で、悔い改めと回心への呼びかけが為なされていたということが述べられています。復活で古い世界が終わり、今から楽しい救いの時代が訪れたというイメージとは大違いです。神のみ前で弁護者がいて人間の罪を清めてくださるからと言って、存分に罪を犯すことができると思うのは誤解です。罪・悪・死の力が終止符ではなく、イエスの復活に現れる神の凱旋が最終的な答えだからこそ、人間はもはや罪に支配されないように生きるべき、あるいは、少なくても生きるように努力すべきなのです。イエスの救済の業は参考までのオススメではなく、ある種の規範を潜めています。

最後に、もう一つ大事なのは、神の僕イエスが苦しみを受けることは神の失敗として突然発生したのではなく、実は前から預言者などによって告げられていた、ということです。しかも、福音書の終わりの方で(旧約)聖書の構造まではっきりと書いてあります——律法・預言者の書・詩編——。その聖書全体がメシアの到来やその運命について述べているのだ、神が昔から救いを準備していたのだ、などということが分かります。この聖書を読んで理解するためには、人間の知恵よりも神の霊が私たちの心の目を開かせてくださるということの方がより必要です。

キリスト教信仰はイエスが人に拒まれたにもかかわらず、神によって高められた後、その勝利に誰でも与ることができるということを証言することに尽きます。

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この表現は、先に命へと入られた方を指したり、また、究極の意味では命そのものの創始者であることを暗示しています。