メッセージ - B年 復活節

毎年の復活節の終わりに、教会は聖霊降臨を祝っています。なぜなら、聖霊はイエス・キリストの世における使命を完成させているからです。復活したキリストが弟子に与えた最初の賜物だからです。師イエスの言葉を思い出し、理解させてくれる指導者だからです。少し想像しにくく理解しがたい聖霊を紹介するためには、聖書は様々なシンボルや様々な称号を使っています。まず、「真理の霊」、それから「弁護者」、「慰め主」、「心の光」などです。聖霊は賜物中の賜物なのです(ルカ11:13を参照)。

聖なる三位一体は、それぞれの位格には固有の働きがあっても、結局全てを業を三者ともに為しています。ですから、イエスの復活と聖霊降臨も非常に密接に結ばれています。興味深いことに、イエスはご自分を「聖霊において」御父に捧げたと書かれています(ヘブ9:14)。また、イエスを復活させた御父の霊が私たちのうちに住むなら、その同じ霊が私たちをも復活させてくださる、と聖書が述べています(ロマ8:11)。そして、聖霊は「命の与え主」とも呼ばれており、廃れてきたもの、衰えたものを再び生き生きさせる働きをしています。教父たちがこだわって強調していたように、聖霊との関わりが欠けてくるとイエス・キリストは大昔の人物でしかなくなり、彼の復活は記念や理念になってしまい、私たちの共同体も空回りしている人間的な組織になりかねません。

今日の朗読から伝わる最も強い印象の一つは、この聖霊は特に「一致の霊」であることです。同じ霊を受け、あるいは、同じ霊で満たされた人々は色々な違いがあっても、色々な言語を語っていても、それは対立に通じることではありません。聖霊降臨直後の教会は、今の世の中に足りない平和と一致(つまり多様性における一致)を見事に体現していました。それは画一化されたユニフォームなものではなく、むしろユニティーを目指し経験する一つの心・一つの体でした。これは、一回限りで獲得されたものではなく、常に把握されつつある不完全なもの、理想、それに近づいていく状態でなければなりません。私たちにさながら刻印として押されている聖霊はまだ完全な形で与えられているのではなく、ただ「保証として」与えられています。将来の完全な賜物、永遠の命への復活、神との完全な交わりなどをあたかも「前払い金」かのように先取りさせてくださるのも聖霊の働きに他なりません。また、聖書が伝えている聖霊の賜物とは、個人個人の持つ「愛、喜び、平和、柔和・・・」(ガラ5章における聖霊の実り)、すなわち自分さえ持っていれば満足できる「知恵、理解、力、畏敬・・・」(イザ11勝による聖霊の7つの賜物)だけではなく、それと同時に皆で経験する現実でもなければなりません。

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