メッセージ - C年 四旬節

この日曜日は、四旬節という慎ましい季節の最中でありながらも、節制や回心だけではなくその喜びと希望を思い出させてくれる日です。質素であることと喜ぶことと相反していないのです。何かに向かって準備していくということは、確かに負担や苦労にも伴われ、難しいこともいっぱい我慢しなければなりません。しかし、第1朗読のイスラエル人と同じように「約束された地」を常に念頭に置きながら、今先取りしている喜びをいつか完全に味わうことになるという慰めに支えられています。

聖アウグスティヌスなどが言っていたように、悲しみの原因が自分の過ちと堕落であるとすれば、真の喜びをもたらすのは、罪から立ち上がり、悔い改めることです。第2朗読が4回も繰り返している言葉で言うならば、「和解する」ことがそれなのです。赦していただく必要があることを認めるのに素直さと勇気がなければなりませんが、実は神と和解することはそれほど難しくありません。なぜなら、実は、私たちが先導することではなく、神ご自身が第一歩を踏み出してくださっているからです。

それらのことをよく描いているのは今日の福音朗読です。有名な放蕩息子の物語(譬え話)の1番のポイントは、父親がこの駄目な息子を苦しいほどに待ち続けていた、彼が父の元に立ち戻ろうとするやいなや、準備していた謝りのセリフを唱えさせてもらえる間も無く、まず父ご自身が先に彼の方へ走り寄って、大事な大事な息子を迎え入れる、ということなのではないでしょうか。そこには「権利」や「利益」の論理のために場所がなく、ただただ純粋な恵みが溢れています。つまり、神の恵みをどのようにすれば得られるのかではなく、無償にいただいている祝福をいかにして無駄にしないかが私たちの課題なのです。


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