メッセージ - C年 四旬節

今日からは、聖週間が始まります。この第6主日は受難の主日か、もしくは枝の主日とも呼ばれます。この日、つまり主イエス・キリストが、過越の神秘を完成するために、エルサレムにお入りになったという出来事を思い起こします。そのため、主なミサの開祭の部分では主のエルサレムの入城が記念されます。この儀式で枝の祝福以外に入城の福音も朗読されます。今年はC年ということで、(ルカ19,28 40)が選ばれます。

この儀式をもってわたしたちはかつてエルサレムにいた群衆にならって歓呼のうちに枝を手にして主イエスをエルサレムに迎えるよう招かれています。と同時に、今日では、キリスト者のわたしたちがこの枝の行列をもって喜びのうちに主の跡に従ってかつてのエルサレムではなく、主と共にご受難の道を辿り、また主と共に天上のエルサレムに、つまり、永遠に神の支配する天国にも入ろうするのです。枝を祝福の祈願文はそのヒントをくれます。祈願文には「全能永遠の神、この枝を祝福してください。主・キリストに喜び従うわたしたちが、ともに永遠の都エルサレムに入ることが出来ますように」とあります。

聖書の中で、エルサレムという言葉にはいくつかの意味があります。大きく別けてみれば、少なくても三つの意味あります。

先ず、一つ目の意味は場所的なもので、かつてのイスラエルの都です。イスラエル人にとってエルサレムは政治と宗教の集中的な都市でした。このエルサレムに2回ほど神殿が建設されました。このエルサレム神殿で契約の箱が安置され、神のためのいけにえが絶えず捧げられ、神ご自身がそこにおられる聖なる都ともされました。

次に、二つ目の意味は人格化的もので、つまり、信じる民をさす言葉です。そのため、民に対して呼びかけるときに、「エルサレムよ」という表現がよく使われています(詩147,12;マタ23,37 39;ルカ13,34 35;など)。

最後に、三つ目の意味は天上的なものをさします。この意味で、エゼキエルや黙示録、パウロ書簡などにはよく出てきます(エゼ48,30 35;イザ24,23;ガラ4,25 26;ヘブ 12,18 24;黙3,11 13 21, 1 5 9 27;など)。

以上の意味で、これから始まる聖週間の典礼をとおして、ただかつての出来事を記念するだけではなく、キリスト者のわたしたちが主の跡に従って十字架の道を共にし、復活される主イエスに永遠の都に至ることが出来る恵みを願い求めましょう。

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