メッセージ - C年 復活節

朗読箇所:

第一朗読 使徒15:1-2, 22-29
第二朗読 黙示21:10-14, 22-23
福音朗読 ヨハ14:23-29

今週の福音朗読の中に、イエスが弟子たちに語られた言葉の中から二つの箇所に注目したいと思います。一つは、「私を愛する人は、私の言葉を守る」です。

私たちは、「愛する」ことと「言葉や掟を守る」ことと関連して考えることはあまりな いです。どちらかと言えば、両者を相容れないものとして考えがちです。言葉や命令を守るこ とは形式主義で負担として捉えます。愛はより素直で、自然に心の中から湧き出てくるもので す。しかし、イエスは、愛することは掟を守ることだと教えています。「私の掟を守るなら、 私の愛にとどまっていることになる」(ヨハ15:10)。「私の命じることを行うならば、あなた がたは私の友である」(ヨハ15:14)。そして、「互いに愛し合いなさい。これが私の命令であ る」と。

命令の掟を守ることが簡単ではないことは、日々誰しも体験しているでしょう。時には自分の感情、自分の好み、自分の体調、自分の都合を犠牲にしなければなりません。しかし、それこそが愛です。「愛」は感情ではなく、コミットメントです。神への愛も、お互いへの愛も、日々の努力(コミットメント)が必要だということです。

もう一つ注目したい言葉は、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」という言葉です。この言葉を毎回ごミサの中で繰り返していますが、イエスが与える平和、世がえるように与えるのではない平和とはどういうものなのでしょうか。

「平和」というと、「戦争がない、争いがない、全てが穏やか、健康で必要なものが満たされている」状況を想像します。確かにそうですが、イエスが弟子たちに約束する平和は、単にそういう表面的なものではないです。戦争がないからと言って、本当に心が平和でいるとは言えないです。健康で全て必要なものが満たされていても、心が平和だとは限りません。

イエスが弟子たちに与える平和とは、確かな希望、永遠のいのちへの希望から生まれる心の平和です。何があっても、自分を愛してやまない御父がいる;何があっても最終的に自分がたどり着くところは御父のみもとだという、確かな希望から湧き出てくる心の平安こそイエスが弟子たち(私たち)に与える平和です。このような心の平安は、日頃の困難、人生の失敗、病気や苦しみでさえも奪うことができないものです。

主は毎日その平和を私たちに与えています。それに気づき、受け入れる心が与えられるように切に願いたいのです。

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