メッセージ - C年 年間

今日の福音でイエスが語る物語は、有名な「金持ちとラザロ」という物語ですが、ここ数週間聴いているファリサイ派の人々との論争、イスラエルの指導者たちの批判の中に位置付けられます。つまり、失われた一人の人を探すよりもまだ残っているものを保管することを好み、失敗した息子を再び受け入れることができず、財産を賢く管理して似たような仲間を増やし、作りたがっていた権力者や裕福な人々に対する厳しい批判でした。今日もその路線で人々と神様の考え方の違い、価値の転換が見られます。いくつか比較するに値する点があります。

(1)有り余るほどお金を持っていた人は匿名で、究極に貧しい人には名前が付いています。人々の間では金持ちの方がきっと知られていて、仲間から名前や称号で呼ばれていましたが、神様の目には貧しくて小さな人にも価値があって、そういう人こそ神様に個人として(!)愛されています。
(2)生きている間は金持ちの方が上に座っていて、余った食料はテーブルの下に落ちていますが、死んでからは葬られ下に置かれます。代わりに、ずっと玄関の下に横たわっていたラザロは上に、つまり天国(アブラハムの懐)に運ばれます。かつて家の門にだけ分けられていた二人は、今度は「深い渕」によって隔たれ、上から一滴の水が落ちてくることを願っています。 
(3)追い出したりもせず、手を差し伸べようともせず、金持ちはラザロの存在を知りながらも無視していたのですが、その名前も知らなかった・知ろうとしなかったかもしれません。ところが、死んでからは実はラザロに言及していますので、実は彼を意識して、名前まで分かっていたことがバレています。しかし、相変わらず高慢な態度は変わらず、直接話しかけるのはラザロではなく、父祖アブラハムに声をかけラザロを召使として扱おうとしています。
(4)金持ち(ここではファリサイ派、サドカイ派、祭司長たちの象徴)は少なくとも形として正統なイスラエル人として死後の世界や永遠の命(ファリサイ派の信仰の特徴)をも信じていたのですが、どちらかというと自動的に救われると思っていました。そのために律法を守っていなかった、あるいは守れなかった人々を排斥もしていました。ところが、立派な生活にも関わらず陰府に下され、自慢できることは何もないラザロの方が楽園に受け入れられます。

面白いことに、お金持ちはどのようにその財産を得たかについては全く触れられず、不正な金銭だったとは限りませんが、それを自分だけのものと考えてしまうことが断罪されています。困った人を助け(られ)なかったというよりも、それを心にも留めていなかったこと(=無関心)がこの匿名の金持ち罪だったのです。ただ悪いことをしなかったかどうかではなく、(チャンスがあった時)善いことをしたかどうかについて私たちはやがて裁きを受けることになります。

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