メッセージ - B年 年間 |
ウクライナ戦争がまだ続いている中、この1年間、毎日のようにイスラエルとハマスやヒズボラの戦争が報道されています。既に長年対立している状況の中で、昨年10月のハマスによる残虐行為がきっかけになっています。その日に、子供を含む千人の以上の人々が犠牲となり、百人以上が今も人質になっています。以来、イスラエルによるガザ地区の空爆が続いおり、瓦礫の中から血だらけの子供が引き出された映像も毎日のように報道されています。
「神を愛すること」そして「隣人を自分のように愛する」という律法と預言者の掟ですが、共にあの約束の地を住まうイスラエル人、パレスチナ人はお互いが隣人ではないかのように対立し続けてきました。国や民族や宗教は違っても、人はみんな神の似姿で作られたはずではないか、と私たちも思うでしょう。しかし、戦争、紛争、対立、殺し合い、攻め合い、奪い合いは、いつの時代も繰り返されています。そして、それは遠いウクライナやガザやレバノンだけではなく、規模は小さいかもしれませんが、私たちも日々の生活の中で体験しています。
イエスご自身も体験しています。今日の福音書で、一人の律法学者の質問がきっかけに、イエスは愛の掟について語っています。律法の専門家であるこの人々に対して、イエスはユダヤ人なら誰でも知っているはずのスタンダードな答えを与えます。律法と預言者の中の最も重要な掟は「心を尽くして神を愛すること」、そして「隣人を自分のように愛すること」です。ユダヤ人であれば、みんな知っているはずです。皮肉なことに、それをよく知っているイスラエルの民の主導者たちは隣人であるはずの自分たちの同胞イエスを敵と見做し、イエスを十字架につけることになります。
ところで、ハマスの残虐行為の犠牲者の中にマオス・イノンという人のご両親も含まれています。襲撃が始まったあの10月7日の朝にイノンさんはニュースの速報を見て、心配になって親に連絡をしました。受話器の向こうから銃撃の音が聞こえます。父親は心配する息子に、「私たちは安全なところにいます」と答えました。しかし、その十数分後、再度電話した時に、もう連絡が取れなくなってしまいました。その後両親が犠牲となったことが分かりました。彼は両親の葬儀を終えて、そしてイスラエルがガザ地区を空爆し始めたことを知って、次のような文書を書いて、新聞に投稿しました。「復讐しても私の両親は生き返らない。殺された他のイスラエル人やパレスチナ人も取り戻すことはできない。戦争はさらなる死をもたらすことに他ならない。誰がより多くの犠牲者を出し、誰が最も苦しんでいるかを決定する戦争に、私は反対。この戦争を止めよう。私たちは暴力の連鎖を断ち切らなければならない」。
「暴力の連鎖を断ち切らなければならない」。確かにその通りです。暴力の連鎖を断ち切らなければ、平和は訪れない。しかし、どのように?その答えを、イエスは私たちに示してくださいました。イエスは、暴力の連鎖を断ち切る唯一の方法を自らの十字架の死を通して示してくださいました。イエスは十字架の上で、自分が受けた妬み、憎しみ、裏切り、罪、そして死そのものを自分の中に吸収します。そして、その負のエネルギーを受けたまま返す、復讐する、仕返しをするのではなく、それをご自分の死をもって許し、慈しみ、優しさ、祈り、祝福に変えてから人々に返し、与えるのです。暴力の連鎖を断ち切るのは復讐でもなく、力の見せ付けでもありません。暴力の連鎖を断ち切るのは、自己犠牲に他なりません。これは対立する国と国の間だけではなく、社会の中でも、家族の中でも同じです。復讐や力の見せ付け、自分だけが正しいと主張することは人間関係を破壊し、家族を崩壊し、社会の不和をもたらすのです。
もっとも重要な掟は「神を愛すること」そして「隣人を自分のように愛すること」です。これは律法のスタンダードな教えです。しかし、イエスは新しい掟、愛の掟の新しいスタンダードを私たちに示してくださいました。単に「自分を愛するように隣人を愛する」のではなく、「私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」。イエスが示した模範が愛の掟の新しい基準、新しいスタンダードです。そして、親を亡くしたあのイノンさんが願っていたこと、暴力の連鎖を断ち切る唯一の方法はイエスが示した愛、自己犠牲の愛に他なりません。
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バルティマイは、道端で物乞いをしていた盲人でしたが、彼がまず最初にイエスに願ったのは、「目が見えるようにしてください」とか「私をいやしてください」ということではなくて、「私を憐れんでください」でした。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」バルティマイは、イエスが来られたと聞いて、叫びました。
しかも「私を憐れんでください」と静かに語り掛けたのではなくて、叫びました。イエスが近くまで来ているとは聞いたけれども、どこにいるのかまでは、目が見えない彼にはわからない。彼はただ、この時を逃すことができないと必死になって、見えなくても近くに入るはずのイエスに何とか声を届かせたい、聞いてほしいと、顔を上げてそこら中に叫びかけました。
「私を憐れんでください」は、「私の目をいやして、見えるようにしてください」よりも、もっと心の深いところから絞り出された、叫びです。それは「私を見捨てないでください」「私のことを見てください」「まるで私が存在しないかのようにふるまわないでください」という自分の全存在にかかわる悲痛な願いでした。
周りにいた人々は、このバルティマイをしかりつけて黙らせようとしました。それはつまり、彼の叫びをなかったことにし、彼がそこにいなかったことにしようとする行為でした。しかし、イエスは彼の叫び声に足を止め、立ち止まり、自分の近くに呼びよせました。バルティマイの叫びに耳を傾け、目を留め、彼自身を、その痛みも望みもひっくるめてすべて受け入れて憐れみ、いやしました。
憐みの心を持って近づいていくように、イエスは私たちを招いています。私たちは、叫びをあげている人々を、必ずしも救うことはできないかもしれません。何もできないことのほうが多いかもしれません。しかし、何もできないとしても、人々の叫びに耳をふさぎ、目を背けるのではなく、
盲人はティマイの子で、名前はバルティマイであったと記されていますが、福音書がいやしの奇跡を受けた人の名前やアイデンティティに言及するのは、特別なことです。イエスにとって、この盲人は、群衆の中の名もない誰か、いてもいなくてもわからない誰でも代わりになる人ではありませんでした。バルティマイという名前を持った、一人の人として扱われました。
主の模範に従って、私たちが小さな一人の人を大切にすることができますように。何かをするよりも、まず共にいて、共に痛みを分かち合うことができますように。
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今日の福音では、「財産」がキーワードとなっています。イエスのもとに走り寄ってきた、ある人はイエスに対して「永遠の命を受け継ぐにはどうすれば良いか」と訊ねます。この永遠の命を受け継ぐため、というのは、言い換えれば、天の国に迎えられるため、ということです。
この人は、自分で言っているように、子供の頃から律法の決まりを破ることなく、しっかりと掟に従って生活をしてきました。つまりは当時の彼らの中で考えられていた、神が人間に求める生き方通りに生活してきたわけです。ですから、この人はイエスに質問したときも「あなたは大丈夫です、そのままの正しい生活を送りなさい」と、そんな答えが返ってくることを期待していたのかも知れません。しかしイエスが言ったのは「財産を貧しい人々に施し、そして私に従いなさい」という答えでした。そんなイエスの言葉に、質問をしたこの人はガックリと気を落として去って行きます。この当時、財産というものは、多ければ多いほど、それは神が豊かにその人を祝福した証であると考えられていました。ですがイエスはその財産を持っていることこそ「欠けている」と言ったわけです。これはどういうことでしょうか。人間が大きな財産を持っていることは、家柄が良いとか、社会的に高い地位にあることにも繋がるかもしれません。それは人間にとって、一生懸命働いた結果であるでしょうし、それが天の国に入れないことの理由になるのは、おかしいような気もします。
今日の福音でイエスが私たちに一番伝えたいこと、それは「神に全てを委ねて、信頼して生きる」ことの大切さであります。私たちが普通に生活を送る上で、皆が一番大切にするもの、無くてはならないものは何でしょうか、お金です。財産です。それが無ければ、私たちは今日食べるものすら手に入れることは出来ません。つまり私たちは、どんな時でも自分の持つお金、財産を一番頼りにして生きているわけです。現代に生きる私たちにとって、当然と言えば当然です。ですがイエスはそうではなく、神を一番頼りにして生きることが大事なのだと教えているのです。財産そのものが悪だとイエスは言っているわけではありません。財産にばかり目を向けて、一番大切な神に目を向け信頼すること、頼ることを忘れてしまうことが悪い、と言っているのです。人間は弱い生き物ですから、どうしてもたくさんの財産を持つと、それを頼りに生きてしまいます。ですから、イエスはそうならないために、財産を貧しい人に施すようなアドバイスを、質問してきた人にも返している、というわけです。
今日の福音を読んで、私が書いたこの話自体もそうですが、やはり財産を持つことや、それを手放すこと、そうしたことばかり頭に浮かんでくると思います。しかしそこが大事なのではありません。神に全てを信頼して生きる、ことが大切なのであって、財産自体の善悪を問うているわけではないのです。この大切な点を心に留めながら、改めて今日の福音のメッセージを黙想し、私たちそれぞれの生活において、反省すべき点、神に信頼出来ていないと思える点を思い起こし、イエスの教える通りの生き方に少しでも近づくことが出来るように、その力を「何でもできる」神に願い求めて行きたいものです。
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今日の福音でイエスは結婚、そして離縁について教えています。イエスは第一朗読の創世記で読まれているように、結婚とは神によって一つに結ばれたものであり、人が離してはならないと教えています。その上でモーセが離縁について許していたのは「あなたたちの心が頑固」であったからとイエスは話しています。イエスはこの箇所で、結婚が神からの祝福であると同時に、再婚のための結婚が姦通の罪を犯すことになることを強調しています。ファリサイ派の人々は、このモーセの律法の部分に囚われているが故に、結婚が神からの祝福であることを忘れてしまっているように思えます。さらに再婚のために離縁をすることは、離縁した家族、共同体から追い出すことを示し、恐らく離縁される方が社会的な地位や立場が弱かったことが考えられます。その上でイエスは結婚というものの重要性と離縁に潜む人間の思惑を見抜いて、このように教えられていると考えられます。
私たちも同様に、社会や共同体の決まりにとらわれ、「心が頑固」になることが多いと思います。しかしそういった中で、イエスが罪人を回心に導き、自分のもとに引き寄せたことを思い起こす必要があります。私たち自身が規則のもとに人を裁く、頑固な心を捨て、イエスが行ったように人々を回心に導きいれることができるよう祈り求めていきましょう。
メッセージ - B年 年間 |
今日の第一朗読に、若きヨシュアは、神の霊を受けて、預言状態にいるエルダドとメダドをやめさせるようにモーセに頼みました。この二人は長老に加えられましたが、彼らは宿営にとどまって、モーセや他の長老と共に主の幕屋に行かなかったからです。ヨシュアの願いに対するモーセの反応は大変興味深いです。「あなたは私のためを思ってねたむ心を起こしているのか」と答えました。モーセは後に自分の後継者となるヨシュアの心にひそむ思いがわかっています。ヨシュアはモーセへの思いことではなく、自分の利己心にとらわれて、そのことを訴えったのです。
同様の状況が福音書に描かれています。イエスの弟子ヨハネは、イエスに従っていなかった人がイエスの名において病人を癒す奇跡を行ったことをみて、彼らをやめさせるようにイエスに願いました。第一朗読のヨシュアと同様、弟子たちはイエスのためにそのように願ったのではありません。弟子たちは、イエスの思いではなく、自分たちの利己心にとらわれています。
第一朗読の若きヨシュアの気持ち、そしてイエスの弟子たちの気持ちは私たちにもよく分かると思います。私たちは周りにいる人々を「内」・「外」、「他人」・「仲間」、「敵」・「味方」などを区別する傾向があります。その結果、人と関わる時にも、その人がやっていることを客観的に見るのではなく、既に自分の中に作り上げる見方で評価します。その結果、素直に良いことを良いこととして認めるのではなく、自分の仲間や自分のグループに属するかどうかが判断の基準となります。
イエスはそのように人を見る弟子たちの見方を正そうとするのです。「わたしたちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」。イエスは弟子たちの中に作り上げられる偏見で物事を見るのではありません。イエスが弟子たちに理解して欲しかったのは、神の恵みの働きは人を分け隔てすることがないということです。神の働きは人間の好き嫌いによって制限されるものではないということです。
私たちが生きている世界はいわゆるグロバルな世界、皆がつながっている世界と同時に、国、民族、言語、文化や様々な主義主張によって人々を分け隔てる壁が次つと作り上げられる世界でもあります。グロバルな世界は同時に、分断されている世界でもあります。そこで、「身内の人はいつも正しい、外の人はいつも間違っている。自分や自分の仲間はいつも正当な側にいる。他人はいつも間違っている」。悪いことが起こると、「きっとこれはあの人たちがやったんだ!」と決めづけてしまいます。そのような偏見は、私たちも日常的に体験しているのではないでしょうか。自分たちが作り上げる偏見によって他人がやっている良いことを認めず、正しく評価することができなくなってしまいます。
まさに第二朗読のヤコブの手紙が非難した様々な社会不義の根底にあるのは、このような自己中心あるいは自分の身内中心あるいは自国中心主義的な私たちの心です。内と外、敵と味方、善人と悪人などの区別は私たち人間が作り上げるものです。もしかすると、神様の視点からは、内と外もない、敵と味方もない、善人と悪人さえないかもしれません。私たちはみな同じ、天の父の子に他ならないからです。
M. Pale Hera