メッセージ - B年 年間

今日の御言葉を読んで黙想した時、私は小神学校にいた頃の貴重な体験を思い出しました。私は内陸にある神学校に通っていました。1年生から4年生まで約500人の神学生がいました。海へのアクセスはかなり遠かったので、神学生たちは週3回しか新鮮な魚を食べることができませんでした。食事の時間になると、各クラスは6人ずつの小グループに分けられます。テーブル当番の人の仕事は、他のテーブルから魚を探してきて、テーブルのメンバーに渡すことです。魚1匹を6人に配るのがルールでした。そして一緒に祈り、食べました。私たちは一切れずつしかもらえませんでしたが、それでも感謝しました。私はこの4年間の非日常的な経験から、「連帯とは与えることと分かち合うこと」であると学びました。

本日の朗読の中では、「連帯、すなわち心を与えること、分かち合うこと」について深く描かれています。第一朗読と福音では、わずかのパンで多くの人が満たされる奇跡が取り上げられています。第1朗読では、預言者エリシャを通して、神は20個のパンを増やして100人の人々に与えるという奇跡的なしるしを行われました。列王記によると、エリシャが自分のしもべを説得して命のパンを人々に与えたことが記されています。ヨハネの福音書では、イエス様が、5つのパンと2匹の魚の奇跡を行うことによって、神の配慮が示されています。イエス様は、普通では考えられない、とても足りないであろうわずかな食物を、感謝の祈りをして、人々に配り、多くの人々が満腹するまで食べさせました。イエス様はこのパンと魚の奇跡で何を強調したかったのでしょうか?

この奇跡を通して、彼らが信じている神は私たちの人生のあらゆる問題を気にかけてくださる愛の神であることを、イエス様は弟子たちと人々に食べるという生きるための基本的なことを通して、示して安心させました。神様の憐れみのゆえに、肉体的な問題も霊的な問題も満たされます。神の力によって、悲しみの涙を喜びの泉に変えることができます。神様がご自分に従う人々に求めることの最も大切なことは、信仰と信頼です。これは、キリストに従うすべての者が持たなければなりません。

洗礼の秘跡を通して、私たちは三位一体の神の愛に満ちた交わりに入り、命の源である聖体の秘跡を通して、すべての人に神の愛を与え、分かち合うように召されています。この朗読を通して、さらに私たちは、他者、特に困窮し、貧しく、のけ者にされ、忘れ去られ、苦しんでいる人々に対して心を向け、気を留め、連帯するようイエス様から招かれています。関心を持つことと連帯するということは、形だけの言葉ではなく、実際の行動を要求します。苦しんでいる隣人との連帯は、数学的な計算や損得勘定ではありません。他者との連帯とは、自分自身の時間やエネルギーを惜しみなく捧げることを意味します。たとえそのもの自体がわずかなものであっても、大きな愛に基づいたものであれば、それは私たちの助けを必要とする人々への感謝と祝福を生みます。

福音書に登場する、5つのパンと2匹の魚を持ってきた少年のように、私たちも、隣人に愛を与え、分かち合うよう神から召されています。こうして、悲しみの叫びは大きな喜びに変わり、神の御名は地においても天においても高められるのです。皆さん、どうか自分の心と持つすべてのものを、惜しみなく他者と分かち合うことを喜びとし、歩むことができる愛と信仰を願い求めましょう。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音で、イエスは「大勢の群衆の姿を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐み、いろいろと教え始められた」とあります。今日の福音のテーマの一つとして、羊飼いが挙げられますが、この福音の箇所でもイエスが人々を教え、導く羊飼いとして描かれています。第一朗読のエレミヤの預言書で読まれているように、当時の群衆にとって羊飼いは、苦難の中に散らされた羊を、希望へと導く王であり、指導者でした。同時に群れから迷い出た羊、散らされた羊たちを集めるために、遣わされた羊飼いでもあります。その意味でイエスは困難の中にある人々の道しるべであり、イエスはその生涯を通して、苦難の先にある希望を示してくださいました。

私たちが困難の中にある時、孤独を感じる時、私たちを憐み、そして探されているイエスを如何に信じることができるのかということがいつも試されています。困難の中にある時にこそ、私たちはその呼びかけの声に耳を傾ける必要があります。そして、わたしたち一人一人も、迷い出た羊をイエスのもとに呼び戻すように招かれています。すなわち私たちは、イエスの呼びかけに答えると同時に、人々の助けの手となり、イエスのもとに導くように召されていることをいつも忘れてはいけません。

私たち一人ひとりがイエスの羊の群れとして、いつもその呼びかけに答えることができるよう祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - B年 年間

きょうの福音書には、主イエスの力によって、二つの奇跡的な出来事が起きたことについて記されています。まず、一つ目は、主イエスの服に触れたことによって十二年間出血病を患っていた女性が奇跡的に治癒しました。そして、二つ目は、会堂管理者ヤイロの十二歳の娘を死から生き返らせたという奇跡です。このニ人の共通点は、どちらも、この世で手を尽くすべきことはすべて行なったものの、回復の見込みが得られず、キリストのもとに来た人たちでした。ヤイロは「娘が救われて生きられるように」(23)と願い、出血病の女性は、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」(28)と思ってキリストに近づいてきました。彼らはただ癒されることだけでなく、主の救いを願ってキリストのもとに来ている人たちでした。

この二つの出来事を考えてみたいと思います。まず、ヤイロの娘のことですが、彼女は十二年間元気に過ごしてきたのに、重い病気になって、死んでしまいます。そして、出血病の女性は、十二年間病気で苦しみ、治療で財産も使い果たしましたが、結局病気は治らず、人生のすべてを失ったとも言えるでしょう。両者とも、人間の力ではどうにもなりませんでしたが、イエスを信じることによって、奇跡のみわざを受けました。

主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(34)と言われました。つまり、イエス・キリストのみわざを受けさせるのは信仰です。問題や悩みを持ちながら過ごすのが人生ですが、イエス・キリストは、そこに必ず解決を与えて下さいます。したがって、ここで最も重要なことは、病気の癒しを求めるよりも、まず、「イエスこそわたしの救い主だ」という信仰を持つことが一番大切です。なぜなら、主イエスの目が最初に注がれるのは病気ではなく、信仰だからです。キリストへの信仰をしっかり身につければ、肉体の癒しだけではなく、むしろ、心や魂も救われます。

最後に、一つ忘れてはいけないことは、神様は私たちに「幸せな人生」を与えるのではなく、「意味のある人生」を与えてくださるのです。アーメン。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音書を読んで黙想した時、私は父から学んだ信仰体験を分かち合いたいと思いました。2011年1月25日の出来事です。父にとって、この日は自分が救われた日です。死んでしまっていたはずですが、神に助けられた日です。ご存知の方もいると思いますが、私の父は漁師で、その日の午前7時ごろ、父は一人で船に乗って漁に出かけました。ちょうど、雨の季節で風も強く吹いていた日でした。しかし、父は家族を養うために漁に行かなければなりませんでした。陸から数キロ離れたところで突然嵐が吹き、大雨の中、何にも見えなくなりました。そして大波で、船の中が水でいっぱいになりました。船が沈む寸前に、父は海に飛び込んで、大波の中、懸命に二時間ぐらい泳ぎ続けました。しかし父は、どんどん力が尽きてきて、もう死ぬだろうと思ったそうです。その時、父は次のように祈りました。『神様、あなたのいつくしみに私の霊を任せます。しかし、私の子供はまだ小さい。私には大きな責任があります。助けてください』。しばらくすると、遠くから他の船が通りかかり、父の姿を見つけました。彼らは海から父を引きあげてくれました。父は助かりました。しかし、それまで家族を養うために大切にしていた船は海の底に沈んでしまいました。今も見つかっていません。私の家の扉の後ろには、「2011年1月25日、神に救われた日」と書かれています。私も家族もいつまでもこの経験を忘れません。いつも思い出します。父はその日に神に救われたと心から信じています。

先ほど読んだ福音書の中では「信仰」の重要さを教えてくださっています。ガリラヤの海で、イエスは嵐と風を静めるという特別の奇跡を行いました。イエスは使徒たちを安心させるために、御自身がいつも彼らとともにおられることを示すために、このようなことをされました。また、恐れていた弟子たちを落ち着かせるためでもありました。「なぜ怖がるのか。また、信じないのか」とイエス様はおしゃいました。なぜこの奇跡が起こったのか、よく考えてみましょう。弟子たちは叫び、神に助けを求めました。ですから、彼らは救われたのです。

人生において私たちは弟子たちのように、様々な形で恐れるという気持ちを持つことがあると思います。仕事に関して、健康に関して、学校に関して、将来に関して、しばしば不安や恐れを覚えるのではないでしょうか。そんな時、「なぜ怖がるのか。また、信じないのか」というイエス様の言葉を信頼して、様々な重荷を神様に委ねれば、神様は必ず助けてくれるでしょう。つまり、信仰を持って自分をゆだねることが必要です。祈りの中でどんな困難に遭遇しても、神のもとに来て、神に叫び求めて下さい。そうすれば、力ある神は私たちの人生のすべての問題に答えてくださいます。どうぞ、神様を心の底から信頼し、神様の御言葉を黙想しながら日々を過ごして参りましょう。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音箇所でイエスは例えを用いて「神の国」について説明しています。しかし、この例えが逆にわかりにくいと感じる人も多いのではないでしょうか。私も正直言って、もっとはっきり理解しやすく言ってくれたら良いのに、と思います。

まず、「神の国」というものは、言葉だけ聞くと、まさしく国とか王国のようなものをイメージしがちですが、「神の国」が訪れる、というのは、神の愛と救いが人間の世の中に浸透することを意味しています。ルカ福音書17章の中で、イエスはこう言っています。「神の国は見える形では来ない。ここにある、あそこにある、と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と。つまり、神の国は外的に目立つものではなく、人の心に働くものなのです。ただし、この神の国、つまり神からの愛、救いというものは、それに応答する人間の姿勢、神の国を望みます、受け入れます、という自分自身の自由な意思からの応答が無ければ、実を結ばないものでもあります。そのため、イエスは全世界の人がこれに応えるように、福音を伝えることを弟子たちに命じ、私たちの生きている現代にまでその教えが受け継がれて来ているのです。

また、今日のこの二つの例え話に出てくる「種」はどちらも「神の言葉」を指しています。その神の言葉が成長していくわけですが、何故そうなるのか、人は知らない、とイエスは語っています。今日の福音箇所で一番強調されるべき点は、この「どうしてそうなるのか知らない」という言葉ではないかと思います。これは、人や社会の中で成長する神の言葉は目に見えないし、人はその成長を計ることが出来ない、という意味ですが、確かに私たちの日常生活を振り返ってみても、ふとした瞬間に教会で聞いた福音の言葉を思い出したり、教会を全く知らない人が教会を批判したりバカにしたりするのを聞いて少し腹が立ったり、そんな時があると思います。そうしたことは、私たちの知らないうちに福音朗読で聞いた言葉、教会で教えられたことが自分の中で確実に実を結んでいるからこそ起こるわけです。その日その時に福音や神の言葉を聞いたからと言って、目に見える大きな進歩が必ずある、というわけではなく、日常生活の中で、ふとした瞬間にこそ、それを実感するものなのだと思います。だからこそ、日曜日に教会で福音を聞くこと、あるいは教会学校などで教えられることや司祭の話を聞くことは、私たちの信仰に直結する大事なことであると言えるのです。すぐにそれを実感するというのは難しいかもしれませんが、私たちが聞いた神の言葉、いわゆる種は、神の国を待つ姿勢、そして私たちの応答の仕方において、着実に実を結んでいるのです。

目に見えないことを信仰する私たちのキリスト者としての生活の中で、私たちに蒔かれた種が大きく成長することを願って、今日の福音の言葉をしっかりと心に刻んでおきましょう。