メッセージ - A年 年間

今日の三つの朗読では、それぞれの救い主への信仰が告白されています。
第一朗読のイザヤ書(49:3、5-6)では、国が滅ぼされ捕囚にあった人々に、「ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる」ために、神が「国々の光」であり「救いを地の果てまで、もたらす者」であるしもべを遣わされる、と語られます。
第二朗読の第一コリント書(1:1-3)の冒頭、書簡の挨拶の部分では、パウロが、自分自身と同じ信仰を持つコリントの人々へ、イエス・キリストへの信仰を強調しています。自分が「キリスト・イエスの使徒」であると言い、コリントの教会の人々を「わたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人」・「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々」と呼び、「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主」であると信仰告白し、彼らに父である神と「主イエス・キリストからの恵みと平和」を祈っています。すべての根拠をイエス・キリストに見出す信仰です。
福音朗読(ヨハネ1:29-34)では、洗礼者ヨハネがイエスのことを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、自分のいのちを献げて人々を救うことになるイエスの生き様を前もって示しています。
洗礼者ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と繰り返して語りますが、しかし霊が降ってきてとどまる、という「しるし」を見て、イエスこそ神の子であると証しするようになりました。イザヤも、パウロも、何らかのしるしを通して、神のメッセージを受け取り、信仰を得て、それを証しするようになりました。
私たちは、今、何を見て、何を信じるでしょうか。

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メッセージ - A年 降誕節

先週の待降節第4主日の福音に続き、マタイ福音書の誕生物語において(2:13-15,19-23)、夢の中で受けた神の言葉に従うというモチーフが取り上げられます。命の危機にあって、ヨセフは三回にわたり、夢の中のお告げに従って行動することにより、自分の家族を守ります。自分自身ではなく神の言葉に信頼して行動するときに、家族が助け合い、危機を乗り越え、家族として一つになる姿が描かれています。

許嫁のマリアが聖霊によって身ごもっていることを知ったときも、ヨセフはひそかに縁を切ろうと決心しましたが、やはり夢の中のお告げに従い、マリアとその胎内の子を受け入れて家族になりました。マタイ福音書におけるイエスの誕生物語に見られる、この「夢の中のお告げ」に関する一連のエピソードを今日祝う聖家族のあり方から考えると、何が家族を一つにしているのかが明らかになります。ヨセフとマリアとイエスが家族として一つになっているのは、血のつながりによってではなく、共に神の言葉への信頼によって、です。これは、私たちが家族的な共同体を形成するときにも重要な点であると思います。

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メッセージ - A年 待降節

マリアと婚約していたヨセフは、彼女が聖霊によって身ごもっていることを知ると、ひそかに縁を切ろうと決心しました。それは主の天使がヨセフに、恐れずマリアを迎え入れるように、と告げたからでしたが、そのお告げは夢の中でなされました。つまりヨセフが寝ているときの話だったわけですが、このエピソードは、私たちが神の言葉に耳を傾ける際のあり方を象徴的に示しています。

人が眠りについているときは、ある意味、生きている中で最も死に近づいたときです。目をつぶって見えなくなるように、いろいろな感覚も鈍くなり、意識的に考えることもなくなり、動くことをやめ、無防備な姿をさらします。ヨセフはそのような眠りの状態に陥ったときに初めて、自分が持っていた考えを手放すことができました。すなわち、ヨセフが困難だと考えていたことを受け入れることができるようになったのは、自分自身が生きることをやめて、すべてを神に委ねた状態になったからでした。

自律した一人の人間として、私たちが自分の考えをしっかり持つことは大切です。しかし、それだけに固執するのではなく、神の言葉に自分自身を明け渡すときに見えてくるものもあるのだと思います。ヨセフは自分が正しいと思ったことを実行しようとしていましたが、眠りについて一度その考えから離れることによって、神の御旨を見出し、妻マリアを迎えることができたのでした。

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メッセージ - A年 待降節

キリスト者でない人たちも祝うクリスマスは、電飾やツリーなどの様々な飾りつけ、おいしいものが並ぶ家庭の食卓やパーティー、サンタクロースのプレゼントなど、楽しい雰囲気の季節です。しかし、キリスト者にとっての主の降誕は、楽しいことばかりでない、厳しい現実を思い起こすときでもあります。苦しみ痛んでいる世界の現実に目を向けながら、それでも希望を持ち、そこにこそキリストが生まれるという信仰をあらたにするときです。

第一朗読のイザヤ書(35:1-6a,10)では、先週に引き続き荒れ野のモチーフが現れますが、そこに花が咲き誇ると言われ、嘆きと悲しみがあるけれども逃げ去って喜びと楽しみが迎える、と告げられています。

第二朗読のヤコブの手紙(5:7-10)では、辛抱し忍耐しなくてはならないが、それは雨が降って大地が尊い実りをもたらすのを待つようなものだと、希望があることを力強くあかしします。

福音朗読(マタイ11:2-11)では、第一朗読のイザヤ書を引用しながら、目が見えない人、耳が聞こえない人、足が不自由な人、病を患っている人、貧しい人がいるという現状を受け止めながら、しかし彼らが見たり聞いたり歩けるようになり、清くされていやされ、彼らにこそ福音が告げ知らされる、と語られます。

飼い葉桶の貧しさの中に生まれたイエスが、傷ついた人・罪を抱えた人と共に生き、彼らに神の国を告げ知らせた、苦しみと罪と死の中にこそ救いを告げ知らせたことは大きな意味があります。イエスが群衆に語りかけたように、私たちも「あなたは荒れ野で何を見たのか」と問われています。

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メッセージ - A年 待降節

洗礼者ヨハネが天の国の到来が近いことを宣べ伝え、人々に悔い改めを呼びかける姿は、「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ3:3)とたとえられています。実際にユダヤの荒れ野で活動していたヨハネは、らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め、イナゴとの蜜を食べ物としていた、という独特の風貌でしたが、更に厳しい言葉を用いて人々を非難し、その罪をとがめます。神の怒りが差し迫っており、木の根元には斧が置かれていて、良い実を結ばないなら、すぐに切り倒されて火に投げ込まれる、という厳しさです。まさに人が生きていくことができない、過酷な自然環境である「荒れ野」のあり様です。

しかし、そんな荒れ野でこそ、「聖霊と火」で洗礼を授ける、洗礼者ヨハネよりも優れた方の到来が告げられました。荒れ野でこそ、救いの訪れ、神の国の訪れが宣べ伝えられました。私たちは、だれしも自分の「荒れ野」で、苦しい状況を生きることがあります。けれども、そんな荒れ野の中にこそイエスが生まれた、人々の苦しみや痛みによりそい、いやしを与えるために生まれた、そういうことを思い起こさせてくれます。

人々が幸せを感じ、楽しみを分かち合うクリスマスの時期だからこそ、荒れ野のメッセージを大切にしたいものです。

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