メッセージ - C年 待降節

待降節は「主の降誕を待つ季節」と書きますが、「待つ」といっても、ただぼうっとして「待つ」のではありません。私たちは心を込めて準備して待ちます。

第二朗読のフィリピの教会への手紙(1:4-6、8-11)では、「キリストの日に備えて」愛をますます豊かにし、本当に重要なことを識別する力を身につけることが祈り求められています。

また、福音朗読(ルカ3:1-6)では、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は皆低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」というイザヤの預言(40:3-5)が引用されます。この預言の「荒れ野で叫ぶ者の声」は洗礼者ヨハネのことを言い表している、と語られますが、まさに彼は、イエスが活動を始める前に人々に悔い改めるよう宣べ伝え、イエスのために道を準備した人でした。

私たちも洗礼者ヨハネと同じように準備が必要です。イザヤ書の言葉のように、自分自身と他者を隔てている谷や山や丘をまっすぐな道にして、心を通わせ、愛が通れるようにするとき、そこにイエスがお生まれになる場所ができます。

 
メッセージ - C年 待降節

きょうから、待降節に入りました。典礼の色も変わりました。今までは、ずっと、緑色でしたが、待降節に入って紫色に変わりました。待降節と言えば、最も特徴的なシンボルは、アドベントクランツです。そのクランツに、4本のろうそくを差しておくのです。そして、そのロウソクを4週間にかけて、日曜日ごとに、1本ずつに、火を灯していくということです。そして、アドベントクランツに、常緑樹の葉を土台にして、その上に4本のろうそくを立てます。その冬の緑の葉は、希望また永遠の命を象徴しています。つまり人生において、どんなことが起きても、希望を失わないで忍耐強く生きることが大事です。きょうの福音朗読で、主イエスがおっしゃったように、「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき、荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからであると。しかし、このようなことが起こり始めた時に、まず、「身を起こして頭を上げなさい」とおっしゃっています。なぜなら「あなたがたの解放の時が近いから」です。言い換えれば「主イエスは、このような出来事が起こった時に、身を隠して、逃げなさい。世が滅び去り、裁きの日があなたがたに訪れるから」とは、言いませんでした。「身を隠し、頭を下げなさい」ということではなく、「身を起して、頭を上げなさい」とおっしゃいました。「信仰を身に付け、希望を持って生きなさい」という意味です。

主イエスは私たちに、「それは、恐ろしい出来事ではない、怖いものでもないのです。かえって、喜びの内に立ち向かってください。」と教えています。なぜでしょうか?その答えは、きょうの福音の28節に書いてあります。「あなたがたの解放の時が近づいているから」です。罪の暗闇から解放されて、救いや自由を得る時が来ると、きょうの第一朗読で預言者エレミアがおっしゃっています。また、人生において、どんなことがあっても、まず、気を落とさないで、希望を持って、信仰の内に生き、歩み続けてくださいと、きょうの第二朗読で使徒パウロが言っています。

どうか、きょうから、4週間にかけて、待降節を過ごしていく中で、まず、希望を持って、そして、この1年間の歩みを振り返りながら、深く反省して、主の御降誕を相応しい心で、迎えましょう。アーメン

 
メッセージ - B年 年間

今日、カトリック教会では「王であるキリスト」の祭日を祝います。また、教会の暦では大晦日にあたります。年間最後の日にこの祭日がある意味は、何でしょうか。「王であるキリスト」は天と地、すべての万物の王であり、世の終わりの日に、私たちを支配し、裁くために来られる方です。今日は私達の生活が、イエス様を中心にして送ることができているのか、つまりイエスを王として認める生活になっているのかを振り返る大切な日なのです。

今日読まれる朗読では、王であるキリストのことについて深く描かれています。第一朗読のダニエル書には、人の子が権威、威光、王権を受けられたことについて語かれています。興味深いことに、これらは人の子が世から受けるものではなく、父なる神ご自身から与えられたということです。それゆえ、その王権と王国は永遠です。また、黙示録は、キリストが栄光のうちに再臨し、今経験しているあらゆる苦しみや迫害を終わらせるという、信仰者の力と希望となることを繰り返し述べています。ヨハネ福音書ではピラトとイエスの会話が登場します。ピラトはイエスにユダヤ人の王であるかを問いただします。イエスは、自分の王国はこの世のものではないと説明します。明らかに福音書は、イエスを王であると宣言しています。その意味で、イエスは王の威厳を持っていますが、その威厳はこの世の華やかさではなく、優しさであり、人々の苦しみを分かち合う能力であり、愛の教えを人々に教える能力です。イエスの権威は、人類の救いのために十字架の道を選ぶというイエスの決断を通して証明されます。つまり、イエスの権威の冠は金で飾られた冠ではなく、イエスの愛の証としてのいばらの冠なのです。

王であるキリストの祭日を祝う中で何を学ぶことができるでしょうか。この祭日は私たちの1年間の信仰の旅の集大成となる日なのです。つまり、イエスが王であることを認めることによって、自らの信仰の集大成を経験するよう招かれているのです。なぜなら、イエスが宇宙の王であり、特に私たちの人生の王であると信じることによってのみ、私たちは、真理のあかしが生活の中で実現できるように、また、他の人々に忠実に仕えることを通して、愛の教えを実践することができるからです。また、皆さん一人ひとりが、宇宙の王、真理の王、私たちの心と人生の王であるキリストに倣うことができますように、平和の君であるキリストとともに永遠の救いに導かれるよう、心から私たちの人生を神の力にゆだね、感謝を捧げましょう。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音箇所は、非常に難解な終末論的性質の強い箇所であります。来週の「王であるキリスト」の日で、教会の暦が1年の終わりを迎えるということで、毎年最後の2、3週の主日には、こうしたエスカトロジー、終末論に関する福音が読まれることとなっています。

さて、その難解な今日の福音ですが、マルコ福音書というのは13章全体を通して、終末、世の最後の時にどういうことが起きるのか、ということを説明しています。今日の箇所は24節からとなっていますが、実際は13章全体を通して読まなければ、ほとんど意味が分からないものですが、少しでも理解が出来るように見ていきたいと思います。

イエスは、今日の24節以前の箇所で、近い将来に様々な苦難が起こることを預言しています。そしてそれはエルサレム神殿が破壊されること、使徒たちにも迫害の苦難が訪れる、あるいは偽者のメシアが現れる、という形で実際に起こったわけです。しかし、それで世の終わりが来たのか、と言われれば、そうではありませんでした。現に私たちは今という時代に生きています。今日の24節からの箇所は、まだ起こっていない、これから起こるであろうことが読まれたのであります。勿論、この聖書の言葉通りのことが起こるというわけではありません。特に24節からの言葉は、神という存在が、私たちの力の及ばない天体や星以上に大きく偉大なものであることの象徴です。そんな大きな力を持つ、神、そして人の子、つまりキリストが再びこの世に来られる、再臨、パルジアと言いますが、それがまだ起こっていないわけです。30節の通り、それらがみな起こるまでは、この時代は決して滅びないのです。ではそれはいつ来るのか、32節の通り、誰も知らないのです。

話を整理すると、この世の終わりの時、終末の時にはイエスのパルジアが実現します。つまりイエスが再びこの世に来られ、その時には27節の通り、イエスに選ばれた人々が集められます。その、いつ来るかもわからない時のために、私たちキリスト者は何を頼りに準備するのでしょうか、それは31節の通り、決して滅びないイエスの「言葉」なのであります。福音書をはじめ、イエスの言葉、そしてそれを受け継ぐ弟子たちの教えは、私たちの日常生活の上でも様々な指針、励まし、心に留めるべき注意として働きかけています。それと同時に、このイエスの言葉を信じる、そして実践することによって、私たちはこの世のことだけではなく、終末の時に向けた準備を行っているわけでもあるのです。32節以降にいつも「目を覚ましていなさい」というイエスの言葉が続きます。私たちは、いつ来るかわからない再臨の時をただ、待つのではなく、目を覚ましてイエスの言葉をこの世において信じ、実践していくこと、この重要性を今日の福音箇所は終末論的メッセージを通して教えてくれているのではないかと思います。

終末、と聞くと、恐ろしいことが起こるようなイメージもありますが、決してそれだけではありません。ただ、それに向けた私たちキリスト者としての心構え、準備というものは大事になってきます。私たちがイエスの言葉を通して良い準備が出来るように、改めて日々の生活を見直して行きたいと思います。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音でイエスは律法学者に対して「人一倍厳しい裁きをうける」と教えられている一方で、生活費をすべて捧げた貧しいやもめに対して「だれよりもたくさんいれた」とその行いを褒めています。当時、律法学者たちは律法をよく守る救いに近い人々であると考えられていました。一方で貧しい人々は生活が困窮しており、宗教的な規定を守ることができなかったために、共同体の中に入れず、救いから遠い存在として捉えられていたことが分かります。イエスの教えはその常識を覆す教えであり、一方で律法学者たちを強烈に皮肉った教えでもありました。律法学者たちは律法を守ることに対して真面目ではありましたが、民衆たちに重荷を与え、その苦しみを顧みることがありませんでした。その意味で神の憐みの本質を見抜くことができていませんでした。しかし貧しいやもめは、自らを投げ打って神に仕えることを選びます。したがってイエスのこの教えは、地位や名誉、財産をどれほど神に捧げることができるのかということをわたしたちに問いかけています。

私たちの社会においては、地位や名誉、財産は大きな尊敬と生活の安定をもたらします。しかし教会共同体、そして信仰においては、そういった物事は関係なく等しく神の子です。その中で如何にして私たちが自ら遜って、神に仕えることができるのか、自分の持っているものをイエスに従うために捧げることができるのかが重要です。

私たちがイエスが遜って人となられたように、神と人々に遜って仕えることができるように祈り求めていきましょう。