メッセージ - C年 年間 |
「心の思いは話を聞けばわかる。… 言葉こそ人を判断する試金石である」。第一朗読のシラ書の言葉です。福音書のイエスの言葉で言えば、「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と。
「イエスは人々を見て哀れに思う時に、本能的に教えはじめる」、とある聖書学者は言っています。確かにその通りです。イエスを追いかける人々は、日常生活を超えて、人生に意味を与える言葉を求めています。先が見えなくて、希望を失った人々は励ましの言葉を求めています。罪にまみれて、そこから抜け出せない人々はゆるしの言葉を求めています。人々が探し求めるのは「言葉」です。希望の言葉、ゆるしの言葉、もう一度生きる力を与えてくれる命の言葉が求められていることをイエスはよく分かっておられるのです。
人々がイエスのところに集まって来るのは、イエスの言葉に力があるからです。その力はどこからくるのでしょうか。それは単にイエスは教えるのが上手とか、口がうまい、自信たっぷりで教えるという理由からではありません。イエスが権威を持って教えるのは、イエス自身がその教えの具現化、イエス自身がその教えを生きているからです。イエスの言葉を聞く人々はその言葉の中にイエスの生き様が反映されていることを感じ取っているのです。イエスの権威は、教えと生き方が一致していることから来ています。そのような言葉こそ人々に生きる勇気、新たな希望を与えるのです。イエスの言葉の中に、人々は自分の人生に必要な言葉を見出すことができるのです。イエスの言葉は、聞く人々の人生に深みを与え、命の源(神)との関係を深めるものとなります。ですから、イエスのことばを聞くために人々は集まってくるのです。
私たちも毎日お互いに言葉を発しています。日常生活の中でお互いに会話をしています。言葉を使ってコミュニケーションをするのです。しかし、その日常の言葉が、誰かにとって希望の言葉、ゆるしの言葉、もう一度生きる力を与えてくれる言葉、元気付ける言葉になった時に、日常の言葉は意味ある人生の言葉、深みを与える真実の言葉になるのです。そのためには、自分が言う言葉が自分の生き様にならなければなりません。そして、そのためには、まずは自分の心を磨き続けなければならないのです。イエスが言うように、「人の口は、心からあふれ出ることを語る」からです。
メッセージ - C年 年間 |
「相互愛」とは私達人間にとって永遠のテーマだと思います。キリスト教の最も基本的な教えにもなります。この「相互愛」は、抽象的な感情にあるのではなく、具体的な行動の中にあるのです。愛がもたらす良い業にはいろいろな表現力がありますが、一番大きいのは「赦すことだ」と思います。つまり、愛し合うための鍵は「赦し」ということです。要するに、「愛し合うこと」とは「赦し合うこと」です。言い換えると、「赦し合うことは最高の愛の表現」と言っても過言ではないでしょう。
皆さん、赦しの一つの方法は、相手を「敵」として見るのではなく、「友」として見ることです。イエスは、十字架上に付けられた時、自分を殺そうとしている人々に向って、「父よ、彼らを赦してください。彼らは何をしているか、自分たちでもわからない」と祈られました。ここで、主イエスが十字架の元にいる兵士たちの行為を「認める」とか、「水に流す」とか、「なかったようにした」という意味ではありません。主イエスは、相手の事を「敵」として見ているのではなく、「友」として見ているのです。そのような「心の目」で見ているから、目の前にいる「友」が罪の暗闇に滅ぼしてしまわないよう、そして、友の心や魂を磨くため、また、自らから回心するように、イエスは十字架上から、「真の愛である赦し」を与えてくださいました。
きょうの福音には主イエスは、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。」とおっしゃいました。つまり、主イエスは「愛と赦し」はキリスト者としてのアイデンティティーであり、人生の最も大事な支えであることを教えてくださいました。
皆さん、人を赦すことには非常に困難ですが、不可能ではありません。主イエスが、真の愛である赦しをお示しになったのは、「神殿」という「快適な空間」からではなく、「十字架上」という「痛みや苦しみの所」からです。これほどまでに、大きな愛で赦しを与え続けてくださったイエスキリストのように、私たちもまた、他人にも忍耐強く、赦しの心を持つべきだということです。
皆さん、「赦し」は、「難しい」が、「美しい」。「赦し」は、「辛い」。しかし「報い」がついている。「赦し」は、「苦しい」が、そこに「救い」がある。どうか、「愛を持って、互いに赦し合いましょう」。アーメン。
メッセージ - C年 年間 |
マタイ福音書に描かれている山上の説教の場面では、「真福八端」と言われる8つの幸いの言葉が述べられます。一方、今日の福音朗読の箇所であるルカによる福音書6章では、イエスが12人を使徒として選んだ後、山から下りてきて、平地で4つの幸いと4つの不幸を語ります。
貧しい人々は幸い、神の国は彼らのものだから。今飢えている人々は幸い、満たされるようになるから。今泣いている人々は幸い、笑うようになるから。そして人々に憎まれ、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられる人々は幸い、天には大きな報いがあるから、と言われます。
これに対し、富んでいる人々は不幸、もう慰めを受けているから。今満腹している人は不幸、飢えるようになるから。今笑っている人々は不幸、悲しみ泣くようになるから。すべての人にほめられるとき不幸、偽預言者たちもそうだった、とされます。
幸と不幸の両方の言葉を聞くと、今不幸な人は幸いに、今幸いな人は不幸になる、と言われているのがわかります。また、この今の幸いと不幸は、たまたまそうなっているということではなく、今富んでいて満腹で笑っていてほめられているのは不正なことをしているからであり、今貧しく飢えて泣いており迫害されているのは人の子に従っているからだ、と考えられているのも明らかです。神は決してその人々を捨ておくことはない、神の愛と義によって、幸いから不幸、不幸から幸いという逆転が必ずもたらされる、そう言われているようです。
私たちも、このようなイエスの深いまなざしを持つように呼ばれています。今傷つき苦しんでいる人々の悲しみを見て共感し、その原因となっている悪まで見通し、それを良しとせずに状況を変えるよう働きかける、そんな神の道具となるように招かれています。
メッセージ - C年 年間 |
私たちはだれでも、自分の歩みの指針として、あるいは弱く絶望的なときに力を与えてくれるエネルギーとして、人生のモットーや原動力となる言葉を持っているではないでしょうか。昨年、司祭に叙階されたとき、私はIn Verbo Tuo Laxabo Rete 「御言葉にしがって、網を降ろします」という今日の福音の中からの言葉を取り上げ、司祭としてのこれからの人生のモットーを選びました。このモットーから、私は自分の人生や召命にどんな困難があろうとも、神の言葉を信じて従うことを学んでいこうと思っています。もちろん、このモットーを選んだのには理由があります。ご存知の方も多いと思いますが、私は漁師の息子で、幼少期は父と漁をして過ごしました。私は海から人生の哲学的な意味について多くを教えてもらいました。人生はある意味で海のようなものです。穏やかなときもあれば、波立つときもります。喜びもあれば悲しみもあり、成功もあれば失敗もあります。中でも失敗に関して父は、よく次のようにアドバイスをしてくれました。「失敗は人生の終わりではなく、成功の出発点だ。最も大切なことは、最後まで戦い続け、決してあきらめないことだ。人生のあらゆる困難の中で、常に神に頼ることだ」と。これを私は今までの人生の中で思い起こし、従っています。では、私たちはどうでしょうか?
先ほど読まれた朗読では、「従順」について深く描かれています。第一朗読のイザヤの預言では、預言者イザヤが神の口寄せ人として召されたことが述べられています。「私はここにおります。私を遣わしてください」と。これは、神の御心に対するイザヤの服従の表現です。なぜなら彼は、自分を召してくださる神は、人間のあらゆる弱さを完成してくださるに違いないと信じているからです。 第二朗読のコリントの信徒への手紙の中で、パウロは自らが福音の告げ知らせる者としての召されていることを強調しています。それは彼の偉大さのためではなく、彼が神から受けた恵みのためです。そして今日の福音書で、ルカは最初の弟子が漁師として召されたことを紹介しています。船乗りであったペトロは、漁で何度も失敗しながらも神の言葉を信じて従った後、イエスから大きな報いを与えられました。ペトロは、「御言葉ですから、網を降ろしてみましょう」といいました。これはどういうことでしょうか。これが、神の御心に耳を傾け、実行しようとしたペテロの態度ではないかと思います。この従順さが、やがてペテロの人生に変化をもたらしました。前の晩の失敗による失望、苛立ち、怒りはすべて報われ、非常に豊かにさえなりました。
今日の福音の御言葉を通して私たちはペテロの信仰に倣うように教えられています。私たちは、神のすべての言葉に心を開き、神の御言葉を通して神から教えられたすべてのことに従い、忠実に実行するように招かれています。こうして、永遠の幸福が私たちの人生の一部となるのです。仕事や召命において多くの失敗を経験しても、決して絶望せず、あきらめず、むしろ何度でもやり直せるように心を開いてください。「御言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というペテロの信仰が、私たちに神が私たちを決して失敗させたり、失望に沈ませたりということはないという希望を再び燃え立たせてくれますように。やがて神が私たちの人生に最良のものを与えてくださると信じ続ける限り、神は私たちに何が必要かを知っておられます。神が私たちの人生に豊かな祝福を与えてくださるよう、神への絶対的信頼を失わず、心を開いて従順の恵みを願い求めましょう。
メッセージ - C年 年間 |
典礼暦では、先週の「主の洗礼」で降誕節が終わり、年間に入っていきます。ちょうど今日の福音朗読はヨハネ福音書のカナの婚礼の箇所が読まれますが、ヨハネ福音書の中で、この出来事はイエスが洗礼者ヨハネと出会ってからおよそ一週間後に起こった出来事です。イエスが最初の弟子たちを呼ぶ時まではおよそ四日が立っており、そこから「三日目に」カナの婚礼がありました。残念ながら『聖書と典礼』のパンフレットには、「カナの婚礼」の箇所の最初にあったはずの「三日目に」という言葉が省かれています。その代わりに、カッコの中で「その時」という言葉に変えられています。カナの婚礼というイエスが行った最初のしるしを理解するために、本当はこの「三日目に」という言葉が大変重要です。
なぜ重要なのか、幾つかの理由がありますが、その一つは「三日目に」というのは、単にカナでの最初のしるしが起こる時間を示すだけではなく、イエスの最大のしるし、イエスの復活を思い起こす代名詞だからです。イエスは、十字架上でのご自分の死の後、三日目に復活しました。初代教会の時も、今の私たちも、イエスを信じる人々にとって、三日目というと、イエスの復活を思い起こすからです。
母の言葉に対して、イエスは「今は、その「時」がまだ来ていない」と返事しますが、まだ来ていないその「時」とは何の時かというと、「受難、死、復活の時」の時です。その時が確かにまだ来ていないということです。しかし、そう主張しながらも、イエスは母の頼みをきっかけに、最初のしるしを行いました。なぜでしょうか。イエスは何を言いたかったのでしょうか。それは、カナでの最初のしるし、そしてこれからイエスが行っていく様々なしるしは、その「時」が来たら必ず起こる最大のしるしである死と復活とは無関係ではないということを示したかったのではないでしょうか。その時、つまり救いの業の最終的で決定的なその「時」が来るまでに、そしてその「時」に辿り着くために、今の日常で起こるしるし、日常の中で起こる神の業に気付くことが必要だということを、イエスは言いたかったのではないでしょうか。
イエスの最初のしるしはユデアのエルサレムではなく、辺境のガリラヤ地方で;そしてガリラヤの中でも、カファルナウムやゲネサレットなど知られる町ではなく、カナというあまり知られていない小さな村で起こりました。また、イエスの最初のしるしは、ごく普通の場面、婚礼という人間くさい、人間の日常的な出来事の中で起こりました。そして、イエスの最初のしるしは、目立たない仕方で起こっていました。世話役も花婿もあの最高のワインがどこから来たのか知らないまま、過ぎてしまいました。共にその婚礼に行った弟子たちだけが、イエスの最初のしるしを見て、イエスを信じました。
私たちにとっても、その「時」、最終的で決定的に死と復活を体験する時、一人ひとりにとっての「三日目」のその時が必ず来ます。それまでに、今、平凡な毎日のなかで、日常の出来事の中で起きている神の愛のしるしを読み取って、日々信仰を深めていくことが必要だということです。
M. Pale Hera