メッセージ - B年 四旬節 |
イエスについて語る四つの福音書が聖書全体の中心であるならば、福音書全体は今日のヨハネ福音書に出てくる「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に要約出来ます。教会の改革者ルーターはこの箇所を「縮小された福音書」と称しました。福音書に語られるイエスの言葉と業、そして聖書全体で語られる救いの歴史はこの一言でまとめることが出来ます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。これこそが全ての人にとっての「福音、良い知らせ」です。
その愛は歴史の中で実現しています。第一朗読にあるように、イスラエルが神に背き、神の愛を裏切っても、神は彼らを見捨てることはありません。神に背いた結果、彼らは捕囚としてバビロンに連れて行かれました。しかし、神はペルシアの王キュロスの手を通して、彼らをエルサレムに連れ戻しました。そして、イスラエルの民だけではなく、パウロが第二朗読で言うように、世を愛された神はその独り子イエスによって罪のために死んでいた私たちを救ってくださいました。イエスを通して私たちは神の愛と慈しみを体験することが出来ます。
しかし、戦争や災害や病気など極限の苦しみの時に、神の愛を感じ取ることができないのが私たちの日常の現実です。先週、私の従姉妹は乳ガンで亡くなりました。病院に連れて行かれた時はもう手遅れで、すぐに家に返されました。彼女は数年前に夫を亡くしました。女一人重い障害の息子を育ててきた彼女にとって、なぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのか、と神様に訴えました。電話で話した時に「神様は不公平じゃないか。私の何がそんなに悪いのか。私って神様の前にそんなに醜いなのか」と泣きながら話していました。私は返す言葉がありませんでした。痛みを和らげるための装置も受けずに、大変苦しんでいました。最後には意識がなくなり、そのまま息を引き取りました。
こんな時に、神の愛や慈しみは単なる慰めの言葉にしか聞こえないかもしれません。それでも「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という事実は変わりません。その独り子ご自身は十字架の上で苦しみの中で息を引き取りました。日々苦しむ私たちと共に。日々苦しむ私たちのために。
メッセージ - B年 四旬節 |
第一朗読(出エジプト20:1-17)は有名な十戒の箇所です。十戒はイスラエルの人々にとって神の民となることを選び、そのために従うべき規範でした。。申命記にある、もう一つの十戒の既述とは異なっていて、この出エジプト記版の十戒の特徴となっているのは、安息日を聖別する理由として「主が創造の後に安息日を聖別されたから」ということを挙げている点です。現代の私たちにとっても同様に、神の子として「聖なる者となる」というのは、四旬節の重要なテーマの一つであり、聖なるものに立ち返る時を大切にします。
第二朗読の第一コリント書(1:22-25)では、十字架につけられて死んだキリストの惨めに見える姿が、私たちにとっては逆説的に強さであり、神の知恵である、と語られています。信仰のない人にとっては愚かさであり、つまずきであっても、キリスト者である私たちは大切なものを見失わないようにしなさい、という呼びかけです。
福音朗読(ヨハネ2:13-25)では、いわゆる「神殿の清め」の出来事が語られています。「祈りの場、神との出会いの場であるはずの神殿が商売の家にされている」というところから、更に「本当の神殿とは建物ではなく、そこに神の御旨と働きが見出されるイエスご自身である」というところにまで議論が進みます。
「神の民になるとはどういうことなのか」「自分にとって本当に大切なことは何か」「キリストの姿が私に語りかけるメッセージは何なのか」「どこで私は神と出会うのか」など、いずれの朗読箇所も、キリスト者としての自分のアイデンティティと信仰の中心を見直す問いを私たちに投げかけています。
メッセージ - B年 四旬節 |
日本では8月11日は、国民の祝日で「山の日」となっています。国土の大半が山であるこの国で、私たちは、山からたくさんの恩恵を受けて暮らしています。「山の日」は、山に親しむ機会を得て、山の恵みに感謝することを目的に制定された祝日だそうです。また、富士山をはじめ、古くから日本には山岳信仰が根付いています。こうして日本のみならず山は、聖なるところだと人々に信じられてきました。ですから山は、人々にとって祈り、慰めの場所でもあります。しかし山の頂上まで登るのは、簡単な事ではありません。登頂するまでには、たくさんの困難が待ち構えています。
今日のマルコ福音書には、タボルという山の上で、「主の変容の出来事」が起こったことについて記されています。「タボル山で、イエスが祈っておられるうちに、顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というエピソードがありました。この光景を見たペトロはすっかり驚き、「先生、私たちがここにいるのは素晴らしことです。仮小屋を三つ建てましょう」と言い出しました。
実は、このペトロの発言を考えてみると二つの思いが含まれています。まず、一つ目は、ペトロはイエスの変容の出来事に非常に驚き、ずっと体験したいという気持ちがあり、できれば長くこのまま山で過ごしたいから、仮小屋を建てたいという願望を自発的に表明しました。そして二つ目は、ペトロ自身が山の上に少しでも長く静かに暮らしたいという理由から辛くて苦しい現実から逃げたいという思いです。彼は、日常の悩みや苦しみに満ちている現実の生活に戻りたくなかったからずっと山にい続けたいと感じていたのでしょう。
皆さん、一度きりの人生で、失敗せずに生きていくことは不可能です。人生において、「山あり、谷あり」ということわざがあります。つまり、人生には、誰でも幸福な時があり、不幸なときもあるのです。喜びのときがあり、悲しみのときもあるのです。成功するときもあり、失敗するときもあります。しかし、失敗してもそこから学ぶ事がきっとたくさんあります。確かに、試練はどのようなものでも、それを受ける人には、好ましいものではありません。しかし、試練を通してしか、養えないものがあるのです。
主イエスは、タボル山で自分の変容をお示しになった後、次は、ゴルゴタへ向かって行きました。つまり、キリストご自身は復活の栄光を受けるために、ゴルゴタの受難の道をたどり、十字架の苦しみや死を受けなければならなかったのです。同じように、私たちの人生も、成功や栄光を達成するために、多くの挑戦、犠牲、葛藤が必要です。
皆さん、人生にはタボル山の変容という幸せなこともあり、ゴルゴタの丘のような十字架もあります。ですから、どうか、イエス様の模範に習い、試練や困難に直面した時、嘆き逃れようとするのではなく、心を開いて、素直に受け止め、キリストと共に十字架の道を辿るなら、癒しや救いの恵み、また人生の栄光が輝いてくると信じて、心新たにして四旬節を過ごしてまいりましょう。
メッセージ - B年 四旬節 |
人生において、誰でも苦しいことを望む人はいないと思います。できれば、苦しみを避けて通りたいと誰でもそう思っているのでしょう。確かに今、苦しみの中にある人にとって、苦しみに積極的な意味を見出すことは困難なことです。しかも、もし苦しみが苦しみで終わるなら、人生は、本当に悲劇だと思ってしまうかもしれません。しかしよく考えて見れば、実は、神様は私たちに乗り越えられる試練しか与えられないのです。つまり、神様は背負えない十字架は与えません。さらに、与えられた試練には、すべて意味があるのです。「人」は人生の幸福を第一として願っていますが、「神」は人の成長を第一として願っておられます。そのために、試練が与えられるのです。試練はどのようなものでも、それを受ける人には、好ましいものではありません。しかし、試練を通してしか、養えないものがあるのです。
神様はイスラエルの民に聖地を約束してくださいました。しかし、彼らが約束の地に到着する前に、神はさまざまな試練を通して彼らの信仰を試されました。これらすべての試練は、彼らの人生と信仰を成熟させることを目的としています。主イエスご自身も、復活の冠と天の王位を受ける前に、この世で様々な試練を経験しなければなりませんでした。まず、砂漠でサタンの誘惑に遭ったことです。そして、人間から拒絶されたことです。最後に、ゴルゴタの十字架の苦しみを通っていかなければならなかったということです。
四旬節はある意味でわたしたちの人生の荒れ野での戦う時期。神は、わたしたちをその四旬節に人生の荒れ野として送ってくださるのです。荒れ野として、そこで悪魔と戦うのではなく、自分自身と戦うということです。つまり、今までの人生を振り返って、自分自身の欠点や不足に向き合い、その弱さを認め、悔い改め、乗り越えていく戦いです。それが、現代のわたしたちの荒れ野の戦いと四旬節の過ごし方だと思います。
メッセージ - B年 年間 |
今日の福音箇所では、重い皮膚病を患っている人が、イエスに癒される場面が描かれています。「重い皮膚病」についてレビ記13章に記述がありますが、当時こうした症状のある人は、「独りで宿営の外」で住むことを求められていました。病を負っているにも関わらず、他人が世話をしてくれる、寄り添ってくれるどころか、自分の家族や共同体から追い出されてしまっていたわけです。
そんな肉体的のみならず精神的にも大きな苦しみを負わなければならなかった人々にとって、イエスの登場は、まさに神の救いと思える出来事であったでしょう。この病を負っている人はイエスに向かって「私を清くすることがおできになります」と断言します。単に清くしてください、とお願いするのではなく、確信を持ってイエスと対面した彼の行動と信仰は、今日の福音箇所で考えるべき重要なポイントであります。
私が個人的に目を引いたのは、病を負っている人の行動・信仰は言わずもがな、彼の心の強さです。当時の常識とはいえ、病を負ってしまったことで、周りの人々から疎まれ、差別され、孤独な日々を送ることを強いられてしまった中でも、自暴自棄になることもなく、周りを恨むこともなく、また、このような人生を自分に与えた神の存在を否定することもなく、自分はいつか癒される、この苦しみから解放される時が来ると、ひたすら信じ続けていたわけです。だからこそ、イエスが現れたときには、自分が確信し続けていたその気持ちを、そのままイエスに告げることが出来たのだと思います。さて、現代を生きる私たちにも、それぞれ、悩み苦しみが尽きることなくのしかかってきます。そんな中で私たちは、この病を負っている人のように、自分を責めることなく、他人に恨みをもって攻撃してしまうことなく、神を否定することもなく、自分の信仰を持ち続け、救いを確信して過ごすことが出来るでしょうか。
病を負っている人の前に現れたイエスは、今でも、私たちのそばに常におられます。私たちの悩み、苦しみ、その全てを共に負い、共に救いの日に向かって歩んでくれています。辛い日々が続く時にこそ、共におられるイエスを頼りながら、少しずつでも前に進んでいくことが出来るように、今日の福音の言葉をしっかりと心に留めておきましょう。