メッセージ - B年 復活節

今日の福音箇所では、福音書全体でも特に有名なイエスの掟である「互いに愛し合いなさい」という言葉に注目が集まるかと思います。この後に「友のために自分の命を捨てること以上に大きな愛は無い」という一文が続きますが、これは、ヨハネ福音書が成立した90年から100年頃のキリスト者への迫害の状況を表しています。当時のキリスト者たちは、激しい迫害の中で、時には命を奪われることもあったわけですが、こうしたイエスの言葉を拠り所として、信仰を保ち続け、迫害を耐え忍んでいたのであります。そういった福音書成立当時の背景を考えてみると、福音書の言葉の理解がまた新たになるかもしれません。

さて、今日のこの箇所で、イエスは「わたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」と語っています。ではそのイエスが命じることとは何かと言うと、まず浮かんでくるのが、「互いに愛し合いなさい」という掟であるかと思います。言葉としてはとてもシンプルなものでありますが、わたしたちがこの掟を忠実に守っているか、と聞かれれば、なかなか「はい」と答えることは難しいと思います。わたしたちはこうして日曜日ごとに福音を聞き、司祭の説教を聞いて、イエスの言葉を理解し、それを日常の生活から生きることを一つの大きな使命としています。例えば今日の箇所で言えば、互いに愛し合え、という明確なメッセージがあるのですから、わたしたちは出来る限り、それに沿った生き方を心に留めておくべきですが、一歩教会の外に出て日常生活に戻ると、もはや頭の片隅にも残っていない、ということがあるかと思います。私もそうです。ここでこうして偉そうに話してはいますが、外では人の悪口ばかり言うなど、とてもじゃないですが、掟にかなった生き方をしているとは言えません。

東方教会では、信徒の日常生活のことを「典礼の後の典礼」と表現すると言われています。この表現は、日曜日に教会に集まり、ミサに与かるだけに留めることなく、日常生活からその典礼を生きているのだ、ということですが、この姿勢にわたしたちは学ぶことが出来ると思います。2000年前のイエスの言葉を現代で忠実に守る、ということは非常に困難なことではありますが、それでも、少しでもイエスが教えるような生き方を志すことは出来ると思います。そのためにも、わたしたちが日常生活を生きる中で、いかにイエスが、そして福音書が伝えるメッセージを生きることが出来るかを考えていく必要があるのではないかと思います。そうすることで、初めて、わたしたちはイエスの友である、と自身を持って語ることが可能になるのではないでしょうか。

復活節も終わりが近づいています。わたしたちが、福音書の言葉を教会の中だけでなく、日常生活から生きることが出来るように祈りながら、聖霊降臨への心の準備を進めて参りましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

今日の福音書を読んで黙想した時、修練期の頃のことを思い出しました。毎月の第三日曜日、修練士には自由時間が与えられ、外に出ることが許されます。ある第三日曜日、私は友達と町に行って買い物をしました。バスを降りると、杖をついて歩くおばあちゃんが交差点を渡ろうとしているのですが、バイクと車が多くてなかなか渡ることができません。おばあちゃんは何分間もずっと待っていたので、私は「おばあちゃん、お手伝いしましょうか」と声をかけました。そして、おばあちゃんの手を握って、一緒に交差点を渡りました。おばあちゃんは私の顔をしばらくじっと見て「あなたはイエス様ですか。」と。これを聞いて、私は本当に驚きしました。「いいえ、私は一人の修練士です。」と答えました。

今日の福音箇所では、イエス様はぶどうのたとえ話を使って、イエス様との「つながり」について語られています。「私は真のぶどうの木、あなた方は、その枝である」。このたとえ話を通して、イエス様はご自身が真のぶどうの木であり、イエスに従う私たちがその枝であることを説明されました。枝はぶどうの木につながっている。この枝は、木につながっていることで、その木からいただく栄養と水で養われ、成長し、強くなり、豊かな実を結ぶことができる。もし、枝が木につながっていなければ、枯れてしまう。つまり、ぶどうの木であるイエス様とその枝である私たちの関係は、まさに、木であるイエス様につながっていなければ、枝である私たちは生きられず、何もできない状態で枯れてしまい、捨てられてしまうのです。

イエス様と「つながっている」ということは、イエス様の中で生きていることであり、イエス様が私たちの中にいるということです。つまり、イエス様のもとに来て、祈りやその御言葉を通してイエス様との関係をより深くすることが大切です。そうすれば、私たちは信仰の内に成長し、神の国のために豊かに実を結ぶことができるのです。どうぞ、私たちの人生に善、喜び、平和という聖霊の実を結ぶことができるように、イエス様を私たちの人生に流れ続ける唯一の命の源としましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

良い羊飼いの主日に当たっている今日の福音でイエスは自らを、良い羊飼いであると述べています。そして雇い人は自らの羊を心にかけていないことに対し、良い羊飼いは羊のために命を捨てると述べています。実際にイエスは羊である我々の救いのために自らの命を投げうち、そして過越しの神秘のうちに救いの希望があることを示してくださいました。さらに囲いに入っていないほかの羊も導かなければならないと福音の中で述べています。囲いに入っていない羊、すなわち自らには救いがないと感じていた人々をも救いに導くことを示しています。その意味でイエスの救いは全ての人々にもたらされます。

私たちのうちでも、見放されてしまったのではないかと思うほどの孤独や失望を感じることもあると思います。しかしイエスはその中でも周りの人々を通して、私たちがいつもイエスに従うよう呼び掛けています。私たちはいつもそのことを思い巡らし、その呼びかけが生活のどこにあるかを探し求めなければなりません。そのためにも自らの命を投げうったイエスがいつも共にいることを、祈りのうちに思い起こす必要があります。

私たちをいつも導いてくださるイエスに信頼し、そして私たちも苦難の中にあっても、いつも過越しの神秘に招かれていることに感謝して、イエスに従うことができるよう恵みを祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

今日の福音書は、エマオでイエスと出会った二人の弟子がエルサレム戻った後のことについて伝えています。彼らは自分たちがエマオで体験したことを話している時に、イエスが彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と彼らを祝福しました。しかし、彼らはイエスのことを亡霊だと思って、恐れおののいていました。こうして、イエスはたびたび弟子たちの前に現れましたが、弟子たちは復活したイエスの姿に気付きませんでした。なぜ気づかなかったのでしょう。

それは、弟子たちは自分たちが持っていた生前のイエスのイメージにしがみついているからではないでしょう。イエスの死によって希望を失った弟子たちにとって、人々に教え、病人を癒し、困った人を助けるのが彼らが持っているイエスのイメージです。彼らは目に見える形で神的な力を発揮するイエスに希望を置いているからです。弟子たちは過去のイエスにしがみついているあまり、今自分たちの真ん中に立っているイエスに気づかなくなってしまいます。

しかし、復活したイエスは弟子たちの固定観念に超えた姿で彼らの真ん中に立っています。そして、イエスは戸惑っているその弟子たちに「復活の証人」となる使命を与えました。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」という使命です。以前、エルサレムから離れてエマオに向かった二人の弟子がイエスとの出会いによってすぐさまエマオからエルサレムに戻りました。復活の証人となる使命は希望を取り戻す弟子たちに与えられました。

私たちも生活の中で希望を失いそうな時をしばしば直面しているのではないでしょうか。しかしその時にこそ、主は私たちの固定観念、私たちの想像を超えて、私たちが気づかない姿で(仕方で)、今ここで、私たちの真ん中にいて下さるのです。このように、復活の信仰を持たない人にとって、イエスは単なる過去に生きた人に過ぎません。しかし、イエスの復活を信じる人にとって、イエスは今、ここで新しい希望を与える「生ける者」になるのです。

 
メッセージ - B年 復活節

今日の福音の箇所(ヨハネ20:19-31)では、復活したイエスが二回にわたって弟子たちに現れます。その弟子たちは、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。自分たちの先生が十字架につけられて処刑された悲しみと、自分たちも捕らえられるのではないかという恐れのためだったのではないでしょうか。

そんな中、イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と言われます。一度目の出現ではこの言葉を二回繰り返され、二度目にトマスがいる時にやってきた時にも同じ言葉がかけられました。

この「あなた方に平和があるように」という言葉は、単なる挨拶ではありません。悲しみと恐れに沈んでいた弟子たちへ、安心して家の中でずっと過ごせるように、ということでもありませんでした。イエスが弟子たちにもたらされた「平和」とは、何もなく、黙って暮らせるという、ただただ平穏な、安全な、変化がない状態のことではありませんでした。「あなた方に平和があるように」という言葉に続いて語られたのは、「父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わす」、「聖霊を受けて、誰の罪でもゆるしなさい」という、派遣の言葉でした。平和は、自分の中に閉じこもっていることではなくて、世に遣わされて、そこで神のゆるしを実現することでした。

またトマスに対しても、「平和があるように」に続いて、「信じる者になりなさい」「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。これはトマス自身だけではなく、イエスを見ていない人にも、その福音を伝えなさい、見せられなくてもその言葉を聞かせなさい、信じさせなさい、それによって人々に幸いをもたらしなさい、そういうメッセージだったのではないかと思います。

ミサの中では聖体拝領の前に「主の平和」の挨拶が交わされます。私たちも、弟子たちと同じように派遣されています。