メッセージ - B年 復活節

今日の福音書を読んで黙想した時、修練期の頃のことを思い出しました。毎月の第三日曜日、修練士には自由時間が与えられ、外に出ることが許されます。ある第三日曜日、私は友達と町に行って買い物をしました。バスを降りると、杖をついて歩くおばあちゃんが交差点を渡ろうとしているのですが、バイクと車が多くてなかなか渡ることができません。おばあちゃんは何分間もずっと待っていたので、私は「おばあちゃん、お手伝いしましょうか」と声をかけました。そして、おばあちゃんの手を握って、一緒に交差点を渡りました。おばあちゃんは私の顔をしばらくじっと見て「あなたはイエス様ですか。」と。これを聞いて、私は本当に驚きしました。「いいえ、私は一人の修練士です。」と答えました。

今日の福音箇所では、イエス様はぶどうのたとえ話を使って、イエス様との「つながり」について語られています。「私は真のぶどうの木、あなた方は、その枝である」。このたとえ話を通して、イエス様はご自身が真のぶどうの木であり、イエスに従う私たちがその枝であることを説明されました。枝はぶどうの木につながっている。この枝は、木につながっていることで、その木からいただく栄養と水で養われ、成長し、強くなり、豊かな実を結ぶことができる。もし、枝が木につながっていなければ、枯れてしまう。つまり、ぶどうの木であるイエス様とその枝である私たちの関係は、まさに、木であるイエス様につながっていなければ、枝である私たちは生きられず、何もできない状態で枯れてしまい、捨てられてしまうのです。

イエス様と「つながっている」ということは、イエス様の中で生きていることであり、イエス様が私たちの中にいるということです。つまり、イエス様のもとに来て、祈りやその御言葉を通してイエス様との関係をより深くすることが大切です。そうすれば、私たちは信仰の内に成長し、神の国のために豊かに実を結ぶことができるのです。どうぞ、私たちの人生に善、喜び、平和という聖霊の実を結ぶことができるように、イエス様を私たちの人生に流れ続ける唯一の命の源としましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

良い羊飼いの主日に当たっている今日の福音でイエスは自らを、良い羊飼いであると述べています。そして雇い人は自らの羊を心にかけていないことに対し、良い羊飼いは羊のために命を捨てると述べています。実際にイエスは羊である我々の救いのために自らの命を投げうち、そして過越しの神秘のうちに救いの希望があることを示してくださいました。さらに囲いに入っていないほかの羊も導かなければならないと福音の中で述べています。囲いに入っていない羊、すなわち自らには救いがないと感じていた人々をも救いに導くことを示しています。その意味でイエスの救いは全ての人々にもたらされます。

私たちのうちでも、見放されてしまったのではないかと思うほどの孤独や失望を感じることもあると思います。しかしイエスはその中でも周りの人々を通して、私たちがいつもイエスに従うよう呼び掛けています。私たちはいつもそのことを思い巡らし、その呼びかけが生活のどこにあるかを探し求めなければなりません。そのためにも自らの命を投げうったイエスがいつも共にいることを、祈りのうちに思い起こす必要があります。

私たちをいつも導いてくださるイエスに信頼し、そして私たちも苦難の中にあっても、いつも過越しの神秘に招かれていることに感謝して、イエスに従うことができるよう恵みを祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - B年 復活節

今日の福音書は、エマオでイエスと出会った二人の弟子がエルサレム戻った後のことについて伝えています。彼らは自分たちがエマオで体験したことを話している時に、イエスが彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と彼らを祝福しました。しかし、彼らはイエスのことを亡霊だと思って、恐れおののいていました。こうして、イエスはたびたび弟子たちの前に現れましたが、弟子たちは復活したイエスの姿に気付きませんでした。なぜ気づかなかったのでしょう。

それは、弟子たちは自分たちが持っていた生前のイエスのイメージにしがみついているからではないでしょう。イエスの死によって希望を失った弟子たちにとって、人々に教え、病人を癒し、困った人を助けるのが彼らが持っているイエスのイメージです。彼らは目に見える形で神的な力を発揮するイエスに希望を置いているからです。弟子たちは過去のイエスにしがみついているあまり、今自分たちの真ん中に立っているイエスに気づかなくなってしまいます。

しかし、復活したイエスは弟子たちの固定観念に超えた姿で彼らの真ん中に立っています。そして、イエスは戸惑っているその弟子たちに「復活の証人」となる使命を与えました。「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」という使命です。以前、エルサレムから離れてエマオに向かった二人の弟子がイエスとの出会いによってすぐさまエマオからエルサレムに戻りました。復活の証人となる使命は希望を取り戻す弟子たちに与えられました。

私たちも生活の中で希望を失いそうな時をしばしば直面しているのではないでしょうか。しかしその時にこそ、主は私たちの固定観念、私たちの想像を超えて、私たちが気づかない姿で(仕方で)、今ここで、私たちの真ん中にいて下さるのです。このように、復活の信仰を持たない人にとって、イエスは単なる過去に生きた人に過ぎません。しかし、イエスの復活を信じる人にとって、イエスは今、ここで新しい希望を与える「生ける者」になるのです。

 
メッセージ - B年 復活節

今日の福音の箇所(ヨハネ20:19-31)では、復活したイエスが二回にわたって弟子たちに現れます。その弟子たちは、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。自分たちの先生が十字架につけられて処刑された悲しみと、自分たちも捕らえられるのではないかという恐れのためだったのではないでしょうか。

そんな中、イエスが現れて「あなたがたに平和があるように」と言われます。一度目の出現ではこの言葉を二回繰り返され、二度目にトマスがいる時にやってきた時にも同じ言葉がかけられました。

この「あなた方に平和があるように」という言葉は、単なる挨拶ではありません。悲しみと恐れに沈んでいた弟子たちへ、安心して家の中でずっと過ごせるように、ということでもありませんでした。イエスが弟子たちにもたらされた「平和」とは、何もなく、黙って暮らせるという、ただただ平穏な、安全な、変化がない状態のことではありませんでした。「あなた方に平和があるように」という言葉に続いて語られたのは、「父が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わす」、「聖霊を受けて、誰の罪でもゆるしなさい」という、派遣の言葉でした。平和は、自分の中に閉じこもっていることではなくて、世に遣わされて、そこで神のゆるしを実現することでした。

またトマスに対しても、「平和があるように」に続いて、「信じる者になりなさい」「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。これはトマス自身だけではなく、イエスを見ていない人にも、その福音を伝えなさい、見せられなくてもその言葉を聞かせなさい、信じさせなさい、それによって人々に幸いをもたらしなさい、そういうメッセージだったのではないかと思います。

ミサの中では聖体拝領の前に「主の平和」の挨拶が交わされます。私たちも、弟子たちと同じように派遣されています。

 
メッセージ - B年 復活節

きょうの福音で描かれている主イエス・キリストのご復活の出来事において、注目したいことは「ペトロの存在」です。ご存知の通り、ペトロは最後の晩餐の直後に主イエスを否定して、打ち消しました。それは本当に残念なことだと思います。今まで家族から離れて、自分と兄弟アンデレとともに、ずっとイエス様と他の10人の弟子とともに生活していました。また、ともに宣教活動をしていましたが、最後の最後に、信頼関係を破ってしまいました。ペトロは人々の前で、「イエス?あの人は知らない」と三度も否定しました。本当に残念というよりも、悲しかったでしょう。

しかし、この弱い人間であるペトロ自身は、その後に「自分の罪を認め、失敗を自覚して、そして、気持ちを切り替え、回心しよう」と決心しました。この「立ち上がった姿」がペトロの新たな人生の出発だと思います。このペトロの出来事という「気持ちを切り替え、立ち上がったこと」とは、現在の私たちの復活の意味だと思います。つまり、私たちの「復活」とは、遠い先に訪れる「永遠の命の復活」を準備する意味と捕らえるのではなく、「現在の人生の人格的なチャレンジ」ということを意味します。自分の、人生の暗闇の束縛から解放されるように自信を持ち立ち上がって、取り戻し、やり直すということなのです。人生の暗闇の部分とは自分にとっての欠点、みにくさ、罪深さに対する苦しみ、などです。これらの心の重いふたを解放し、解き放つという内面的な力が、これが「復活だ」と思います。もう一度立ち上がって、一歩前に進んでいくということです。

一つの名言があります。「生きる上で最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではなく、転ぶたびに、起き上がって、歩き続けることにある」と。どうか、ペトロの模範に習い、自分にとっての「欠点、みにくさ、罪深さに対する苦しみ、などなど」、これらの「心の重いふた」を、脱ぎ捨て、復活の信仰の内に、「新しい自分」という「内面的なチャレンジ」を身につけましょう。アーメン。アレルヤ!“主のご復活、おめでとうございます”