メッセージ - A年 年間

きょうの福音にはキリスト教にとって、最も大事な「愛の掟」について記されています。「神を愛し、隣人を愛す」という最大の掟です。この二つの掟は切り離すことができない神の御心として、私たちの前に置かれているとイエス様がおっしゃっています。

きょうの説教で注目したいことは、主イエスが語った第二の掟の内容です。主イエスは、「隣人を自分のように愛しなさい」と言っていました。まず、この「隣人を自分のように愛しなさい」というのは、レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」から来ています。

まず、主イエスが語った、「自分のように」という言葉を理解したいと思います。主イエスは、「自分のように」と言っていましたが、それは、「自分を愛するのと同じ程度に熱心に」ということではなく、「自分を愛するのと同じように無条件で」という意味です。そして、その無条件の愛の根拠は神の愛です。神がそのような質の愛をもってわたしたちを愛してくださっています。神は私たち一人ひとりの命を掛け替えのない存在として大切にしてくださっているから、私たち自身も自分を掛け替えのない存在として大切にしなければなりません。それが他者への愛の始まりです。それほどの愛を持つならば、他者への愛を実行することができるのです。

では、自分を愛するとは何でしょうか?「自分を愛する」ことは、先ず、「ありのままの自分」を受け入れるということです。自分を前向きに深く深く、どこまでも否定せず、全ての感情と身体のすべての部分を愛しむことです。苦しみも、悲しみも、楽しみも、喜びも、恐れも。失敗も、成功も、怠惰も、努力も、才能も、無能も。どんな自分にも、良い、悪い、短所、長所の優劣をつけず、どうにかしようとさえ思わず、ただ、今、この状態で在る自分を、受け止め、認め、有難いと感じることです。

是非、素直にとことん自分と向き合い、意志を強め、自分らしく生き伸びていきましょう。自分と向き合うことによって、弱い部分を認め、同時に、自分の中にある力の原点を見つけ出すことができるだろうと思います。それが「弱い自分に打ち勝ち」=「強い自分を作る」という幸せな人生の一つの方法です。

どうか、自ら自分を愛し、また、他者を自分のように愛して、そして、言うまでもなく先に私たちを愛してくださった神を愛しましょう。アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

ラテン語の名句のひとつに、「Pro Deo et Patria」があります。あまり聞き慣れない言葉だと思いますが、「Pro Deo et Patria」とは、「神と国のために」という意味です。このメッセージは、「良い信者でありながら、良い国民であるように」ということです。つまり、キリスト者として、一方だけを大切にして、他方を無視してはいけないということです。言い換えれば、「国民」として、私たちは社会の中に生き、社会と関わっているので社会のことを大切にしなければなりませんが、同時に「教会の信者」として、教会のことに関わっていかなければならないということ、人生の中で両者のバランスを取る責任があることを意味しています。

今日の福音書では、ファリサイ派とヘロデ派の人たちが主イエスに、「先生、皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」と聞きました。この質問に対して、主イエスは、賢い判断を示してくださいました。主イエスは、デナリオン銀貨を手元において、肖像や銘を確認した上で、「皇帝の肖像や銘なら皇帝に、神の肖像や銘なら神に返しなさい」と言われました。では、銀貨には皇帝の肖像や銘がありますが、神様の肖像や銘はどこにありますか。それは、私たち人間の中にあります。なぜなら、私たちは神の似姿に創られた者だからです。さて、私たちが神の似姿に創られているのであれば、神に何かを返さなければならないと思います。それは、何よりもまず、私たちの命、全身,全霊、すべての意志や自由、思い、言葉、行い、いわゆる私たちの全生涯を神に捧げなければならないということです。これが、「皇帝の肖像や銘なら皇帝に、神の肖像や銘なら神に返しなさい」と主イエスが言われた言葉のひとつの意味だと思います。

もうひとつ、共に考えたいことは、この主イエスの、「皇帝の肖像や銘なら皇帝に、神の肖像や銘なら神に返しなさい」という発言です。これは「宗教と政治:教会と社会」を区別するという意味ではなく、むしろ、どちらも人生において必要なものであり、両方とも大切にしなければならないということです。

簡単に言えば、私たちは良い国民として税金を払わなければなりません。また、良い信者として維持費を払わなければなりません。良い国民として、社会の事に積極的に関わらなければなりません。また、良い信者として教会の活動に積極的に関わらなければなりません。

教皇フランシスコは2023年8月31日‐9月4日にかけて、モンゴルを訪問されました。最後の日に取り行われたミサの終わりに、中国国民に向けて挨拶をおくると共に、中国のカトリック信者らに励ましの言葉を述べられました。教皇フランシスコは、「わたしは中国の高貴(こうき)な国民に、心を込めて挨拶をおくりたいと思います。すべての国民の皆さんに、より良いものを、常(つね)なる前進(ぜんしん)と発展(はってん)をお祈りいたします。そして、中国のカトリック信者の皆さん、よいキリスト者であると共に、よい市民であってください。」と述べられました。

皆さん、「空の鳥は高く飛ぶために二つの翼が必要」です。私たち自身も、生きていく中で、人生のバランスを取らなければならないと思います。国に対しても、教会に対しても、両方とも大切にしなければならないのです。一方を大切にして、他方を無視したり、ないがしろにしたりするなら、人生のバランスが崩れてしまうと思います。

どうか、「良い国民」でありながら、「良い信者」でありましょう。

アーメン。

 
メッセージ - A年 年間

先週の「ぶどう園と農夫」の例え話に続き、今日の福音箇所でもイエスは「婚宴の例え」を用いて、天の国について、そしてそこに招かれる人について説明しています。この箇所では、最後の一文「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」という言葉が、非常に大きな意味を持っています。

今日の例え話に出てくる王は神であり、婚宴を行う王子はイエスのことを指していると考えると、この話は、神が独り子イエスのための婚宴、つまりイエスを迎える日を用意し、そこに人々を招待したものであると想像できます。あらかじめ王がこの婚宴に「招いておいた人々」は、誰一人としてその招きに応じず、みな自分のことを優先しました。この人々は「ふさわしくなかった」と明言されています。その後、善人も悪人も、大通りにいた人々は全てこの婚宴に招かれましたが、礼服を着ていない人は、外に放り出されてしまいました。招きに応じた人の中でも「ふさわしくない」人が選別されたわけです。要するに、この例え話では「招き」に対する「応答」が重要であると言えるでしょう。

神の呼びかけ、招きは、私たちすべての人間に対して行われていますが、この招きをありがたく思う人もいれば、まだ自分では気づいていない人もいます。ただ、それだけではなく、私たち人間の応答がふさわしいものか否かも判断されているのです。こう考えると、とんでもない無理難題を押し付けられているかのように思えてきますが、決してそんなことはありません。今日の例えの中で「ふさわしくない」と判断された人々は、自分に求められている「招き」に気づいていながらも、自分のことばかりに目を向け、応えることを拒否した人々でした。確かに私たち人間の日常を鑑みても、自分自身のことで精いっぱいで、なかなか神への応答についてじっくりと考える余裕はないかも知れません。一方で、自分が助けてほしいときには神に多くのことを願い求めてしまいます。人間とは、そうした弱い存在です。それでも神はいつ何時どこでも私たちの願いや訴えを聞き入れてくれています。ですから、私たちも、そんな神に感謝をしつつ、ほんのわずかでも、神からの呼びかけに対して応える、あるいは応えようとすること、神は自分に今何を求めているのだろうか、自分はその求めに正面から応えることができているだろうか、と考えてみること、このことが神の前にふさわしい応答をするに繋がる一歩目となるのだと思います。

私たちがこの例え話から得られるメッセージを、自分自身に向けられたものとして受け止め、これからの生活の中で活かしていくことができるように、そして神にふさわしい応答を行う人間となっていくことができるように、共に祈りながら、改めて今日の福音箇所を黙想してみましょう。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音でイエスは群衆にぶどう園と農夫のたとえ話を話されています。たとえ話の中のぶどう園は、イスラエルのことを指し、農夫はその指導者たち、すなわち話の聞き手の中にいる祭司長とファリサイ派を指します。そして主人は神であり、神がイスラエルの救いのためにぶどう園に手をかけ、終末の時に向けてその面倒を農夫に任せます。しかし旧約の物語にあるように、奴隷、すなわち預言者たちを受け入れず、殺してしまいます。そして神は自分の一人息子であるイエスを送りますが、農夫たちはこの一人息子も財産、すなわち自分たちの権威のために、殺してしまいます。そしてこのたとえ話の締めくくりとして、詩編118編23が引用されます。家づくりの捨てた石、国を作る人間にとって不要と思われていた石が、新しい神の国を完成させる隅の親石となる、すなわち人間に受け入れられず、殺されたイエスが神の国の土台となることをこの詩編を引用し、たとえ話の締めくくりとしています。祭司長やファリサイ派の人々は、その偏見や高慢さ故にイエスを受け入れることができませんでした。一方でイエスを素直に受け入れた人々は、その出自や地位に関わらず、救いに与ることができることをこの詩編によって示しています。私たちも同様に、日々の生活の中で示されるイエスの導きを素直に受け入れる必要がありますが、その高慢さや偏見故に受け入れられないことがあります。

福音の中でイエスは「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われています。これはイエスの教えを素直に行け入れる人々、そして本当に救いを必要とする人々に天の国の救いが与えられることを意味しています。しかしその導きがどこから来るのかは、私たちにはわかりません。しかし、私たちが祈りの中でいつも謙遜を保ち、その導きを探し求めるならば、私たちの生活の中にその助けが示されます。だからこそ私たちは日ごとの祈りとミサの中で、いつも神が共にいることに信頼し、素直にその導きに従う必要があるのだと感じます。

私たちが偏見や高慢さを捨て、素直に神に従うことができるようにこのミサの中で祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - A年 年間

この主日の朗読は「考え直す」こと、言い換えれば「回心」することの重要性を強調しようとしています。

福音朗読では、イエスのたとえに登場する「兄」も「弟」も父の願いに素直に従った訳ではありません。「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」という父親の言葉に対して、兄は「嫌です」と真っ向から父の言葉に逆らいました。他方、弟は「お父さん、承知しました」と言いながら、実際にぶどう園には行っていませんでした。彼は父親を裏切ったということになります。どちらも父親に対して相応しくない態度をとったということです。

つまり、イエスがこの譬えを通して祭司長や民の長老たちに先ず気づいて欲しかったのは、人間は誰でも神に逆らう罪人だということです。イエスが祭司長や民の長老たちに自覚して欲しかったのは、「罪人だ!」と彼らがレッテルを貼る人々(徴税人や娼婦たち)だけではなく、彼ら自身も「罪人」だということです。なぜなら、彼らは人前では「神に従う」ふりをするが、実際に行いは伴っていません。イエスはこの譬えを通して「回心」を呼びかけていますが、回心するために、人は自分を「罪人」だと認めることが必要だということです。神の前に。他人の前に。

徴税人や娼婦たちが正しい人々とされるのは、彼らがイエスの言葉を聞いて、これまでの誤った態度を「考え直した」からです。人間はみんな罪人です。しかし、その誤った道、誤った決断、誤った行動を「考え直す」ならば、神は必ず憐れみを注いでくださいます。神は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方」(ヨナ4:2)だからです。第一朗読のエゼキエルの言葉にあるように、「悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる」。人が「考え直す」ことで、神は下そうとする災いを「思い直す」ことすらできます。

第二朗読のパウロの言葉に示されるように、そのために人は神の前に「へりくだる」ことが求められています。神の前に自分を「罪人だ」と謙虚に認める人だけが「回心」への呼びかけに答えることができます。そして、神の前にへりくだる模範は、御父の前にへりくだる御子イエスご自身です。

人は自分が正しいと主張したがります。しかし、神の前に本当に正しい人とは、一切過ちを犯すことがない人ではなく、謙虚に自分の過ちを認め、考え直す勇気を持っている人だということです。