メッセージ - A年 年間

今日、私達は年間第16主日を迎えました。今日の御言葉では「忍耐」について深く描かれています。「忍耐」についてマタイ福音書で、イエス様は毒麦の例え話を使って、神様の忍耐力を表して下さっています。福音書では次のように書かれています。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」毒麦を抜かないで、そのまま刈り入れまで生かしておく様は、神様の忍耐強さを表しているようです。

世を裁くその時まで、神様は罪人も、正しい人も平等に忍耐強く見守ります。すぐに悪人を裁かないのは、神様が罪人に対して悔い改める機会を与えているとも取れます。つまり、神様は広い愛の視点から人間をとらえて下さっているのです。

しかし、弱い人間である私たちは人生や生活の中で、しばしば忍耐力を試されることがあります。人間関係、自身の健康、家族や仕事のことなどです。毒麦の例えにあるように「世の終わりまで」、つまり神様目線で問題に耐え抜くことは、私たち人間にとって容易なことではありません。時には少し短気になってしまって、愚痴や文句が私たちの口から洩(も)れてしまうこともあるでしょう。

今日の御言葉に目を向けてみましょう。神様は最後の最後まで、黙って善悪を見守りました。私たちも、直面する困難をじっと耐え忍ぶことができるように、神様に願いましょう。どうか、裁きの時が来たら、私たちが正しい者として神様の前に立たせていただけますように。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音でイエスは、種まく人のたとえを話されています。たとえ話の中で、種は神のみ言葉、そして土は私たちの心を表しています。そして実りは、私たちの行いを示しており、同時に終末的な「刈り入れ」の時を暗示しています。イエスはたとえ話の最後を、「耳のある者は聞きなさい」という言葉で締めくくります。この言葉は私たちに、神のみ言葉を受け入れるために、そして実りをもたらすために、良い土壌を準備しているかということを問いかけています。その意味で私たちにとって、神のみ言葉を「聞く」ということは、どのようなことを示しているのでしょうか。

私たちにとって神のみ言葉を聞くことは、ただ単に「聞く」ことだけではなく、それを私たちの生活で実行することを示しています。私たちは日々の生活の中で、神のみことばを行うように、多くのしるしを通して導かれていますが、そのしるしに気づかないことが多くあります。だからこそ私たちは日々の生活に起こる出来事、私たちが普段目にしているニュースなどをキリストの目線で見て、考えなければなりません。そしてその中で私たちに、何ができるのかということを考え、実行に起こすことこそ、私たちにとっての「実り」に繋がっていくのだと思います。

私たちが神のみ言葉を良い土壌をもって聞き入れ、その実りをもたらすことができるよう祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - A年 年間

福音朗読箇所(マタイ10:37-42)の冒頭、「わたしよりも父や母(息子や娘)を愛する者は、わたしにふさわしくない」は、非常に厳しい言葉を突きつけられたように感じます。けれども、「愛」の意味を少し掘り下げると、感じ方も変わってくるかもしれません。

イエスが語られる「愛」は、単に感情的に「好き」であることではないと言われます。キリシタンの時代には、「愛」は「ご大切」という日本語に翻訳されたそうです。「愛する」とは「好きになる」ことではなくて、目の前の相手を「大切にする」ということです。ですから、たとえその相手を心情としては好きではなかったとしても、自分とは関わりがなかったとしても、敵であっても、愛することができます。

そして、イエスが「わたしを愛する」と言うときの「わたし」は、ここでイエス個人だけではなく、「あなたがた」(=弟子たち)や「わたしを遣わされた方(=父である神)」、更には「小さな者の一人」と重ね合わされます。

血のつながった家族を大切にするのはあたりまえです。けれども、わたしたちはそのまなざしを、心づかいを、もっと外に広げていくように招かれています。隠れたところで小さくなって愛に渇いている人に、嫌いで見たくもない人に、キリストの「愛」を向けるように呼ばれています。

 
メッセージ - A年 年間

この主日の福音朗読箇所(マタイ10:26-33)では、「恐れるな」という力強い言葉が印象的です。このエピソードは、先週の主日の朗読箇所である「12使徒の選びと派遣」(マタイ9:36-10:8)と、その後の「迫害の予告」(マタイ10:16-25)に続く箇所ですので、弟子たちが宣教に出て迫害されても「恐れるな」ということです。

私たちは、何が正しくて良いことか、どう行動して何を言うべきか、頭ではわかっていても、恐れや恥ずかしさのために勇気を出せず、躊躇してしまうことがあります。そして、手を差し伸べられなかった、一歩を踏み出せなかった後悔と自責を抱えて日々を過ごしています。

イエスはそんな私たちを断罪して責めるのではなく、「恐れるな」と励まします。「敵前逃亡はゆるさない」という脅しではありません。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(10:32)と語っているとおり、私たちの仲間として、私たちの隣に立って共にいてくださるからです。その励ましに応えたいと思います。

 
メッセージ - A年 復活節

福音朗読の箇所(ヨハネ14:1-12)は、最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちに語る場面が読まれます。その中で、イエスは弟子たちに「わたしは父の家に、あなたがたのために場所を用意しに行く」と言います。この弟子たちのための「場所」は、「道」を歩んでたどり着く終わりの時のことを指しているのかもしれませんが、同時に「道」を歩み続けるための力を得る場所でもあります。イエスは、その場所を「父」と自分自身の結びつきと関連づけて語ります。

生きていく上で、誰でも「居場所」を必要としています。安心できて、ありのままの自分でいられる、自分が大切にされている、愛されていると感じられる場所です。そのような居場所があるからこそ、力を得て、勇気を与えられて、そこから一歩踏み出していくことができます。困難な道を歩んでいくことができます。

師であるイエスがいなくなった後、弟子たちが迫害の中でも主の道を歩み続けられたのは、確かな居場所があったからでした。私の居場所はどこにあるでしょうか。私は誰かにとって愛を感じられる居場所となることができているでしょうか。