メッセージ - B年 四旬節

人生において、誰でも苦しいことを望む人はいないと思います。できれば、苦しみを避けて通りたいと誰でもそう思っているのでしょう。確かに今、苦しみの中にある人にとって、苦しみに積極的な意味を見出すことは困難なことです。しかも、もし苦しみが苦しみで終わるなら、人生は、本当に悲劇だと思ってしまうかもしれません。しかしよく考えて見れば、実は、神様は私たちに乗り越えられる試練しか与えられないのです。つまり、神様は背負えない十字架は与えません。さらに、与えられた試練には、すべて意味があるのです。「人」は人生の幸福を第一として願っていますが、「神」は人の成長を第一として願っておられます。そのために、試練が与えられるのです。試練はどのようなものでも、それを受ける人には、好ましいものではありません。しかし、試練を通してしか、養えないものがあるのです。

神様はイスラエルの民に聖地を約束してくださいました。しかし、彼らが約束の地に到着する前に、神はさまざまな試練を通して彼らの信仰を試されました。これらすべての試練は、彼らの人生と信仰を成熟させることを目的としています。主イエスご自身も、復活の冠と天の王位を受ける前に、この世で様々な試練を経験しなければなりませんでした。まず、砂漠でサタンの誘惑に遭ったことです。そして、人間から拒絶されたことです。最後に、ゴルゴタの十字架の苦しみを通っていかなければならなかったということです。

四旬節はある意味でわたしたちの人生の荒れ野での戦う時期。神は、わたしたちをその四旬節に人生の荒れ野として送ってくださるのです。荒れ野として、そこで悪魔と戦うのではなく、自分自身と戦うということです。つまり、今までの人生を振り返って、自分自身の欠点や不足に向き合い、その弱さを認め、悔い改め、乗り越えていく戦いです。それが、現代のわたしたちの荒れ野の戦いと四旬節の過ごし方だと思います。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音箇所では、重い皮膚病を患っている人が、イエスに癒される場面が描かれています。「重い皮膚病」についてレビ記13章に記述がありますが、当時こうした症状のある人は、「独りで宿営の外」で住むことを求められていました。病を負っているにも関わらず、他人が世話をしてくれる、寄り添ってくれるどころか、自分の家族や共同体から追い出されてしまっていたわけです。

そんな肉体的のみならず精神的にも大きな苦しみを負わなければならなかった人々にとって、イエスの登場は、まさに神の救いと思える出来事であったでしょう。この病を負っている人はイエスに向かって「私を清くすることがおできになります」と断言します。単に清くしてください、とお願いするのではなく、確信を持ってイエスと対面した彼の行動と信仰は、今日の福音箇所で考えるべき重要なポイントであります。

私が個人的に目を引いたのは、病を負っている人の行動・信仰は言わずもがな、彼の心の強さです。当時の常識とはいえ、病を負ってしまったことで、周りの人々から疎まれ、差別され、孤独な日々を送ることを強いられてしまった中でも、自暴自棄になることもなく、周りを恨むこともなく、また、このような人生を自分に与えた神の存在を否定することもなく、自分はいつか癒される、この苦しみから解放される時が来ると、ひたすら信じ続けていたわけです。だからこそ、イエスが現れたときには、自分が確信し続けていたその気持ちを、そのままイエスに告げることが出来たのだと思います。さて、現代を生きる私たちにも、それぞれ、悩み苦しみが尽きることなくのしかかってきます。そんな中で私たちは、この病を負っている人のように、自分を責めることなく、他人に恨みをもって攻撃してしまうことなく、神を否定することもなく、自分の信仰を持ち続け、救いを確信して過ごすことが出来るでしょうか。

病を負っている人の前に現れたイエスは、今でも、私たちのそばに常におられます。私たちの悩み、苦しみ、その全てを共に負い、共に救いの日に向かって歩んでくれています。辛い日々が続く時にこそ、共におられるイエスを頼りながら、少しずつでも前に進んでいくことが出来るように、今日の福音の言葉をしっかりと心に留めておきましょう。

 
メッセージ - B年 年間

皆さんには、憧れの有名人はいますか。歌手だったり、スポース選手だったりするのではないでしょうか。自分にとっての「アイドル」と言い換えることができるかもしれません。きっとその人から影響を受けて、「将来あの人のようになりたいなぁ」と思うこともあると思います。

さて、キリスト教徒にとっての「アイドル」は、イエス様であってほしいですが、皆さん、どうでしょうか。また、キリスト教徒に限らず、歴史上、1番人気の人と言っても過言はないと思います。でも、どうしてでしょうか?今日のマルコ福音書には、その答えとなるような事が描かれています。イエス様はカファルナウムの会堂で、二つの出来事が起きます。まず、会堂でイエス様は権威あるものとして皆に教えになり、更に汚れた霊を追い出しました。その時、これを見聞きした人は、皆驚きました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。汚れた霊に命じると、そのいうことをきく」とマルコは記録しています。しかし、その信仰的な出来事を体験した人の中に、イエス様を信じるように改心した人はいませんでした。人々はただ驚くというレベルまででした。では、私たちはどうでしょうか?

私たちはよく聖書を通し、イエス様の御言葉を聴き、驚き、喜びます。しかし、イエス様ご自身を愛するか、御言葉を信じるかどうか、それが一番大切です。信仰に対して驚くだけでは足りません。この言葉を耳にし、理解して、心で信じ、行動をもって他の人に分かち合わなければなりません。なぜなら、御言葉は生きているからです。

今日の福音書には、私たちがイエス様とその教えに対して驚きよりも、信仰をもって受け入れるというメッセージがあります。言葉や行いによって、良いキリスト者として私たちが毎日の生活の中でその教えを示しながら生きる事が必要です。イエス様の教えに従って、正しものになりましょう。人生において神の愛と善意を疑わないカトリック信者になりたいものです。人生は神の御業!わたしたちは罪深い人間ですが、神からの恵みを溢れるほど受けることができます。ですから、神の偉大な愛と慈悲深さに感謝し、その御業に賛美を捧げ、神の言葉を黙想しましょう。

 
メッセージ - B年 年間

2001年1月26日、東京のJR 山手線新大久保駅で発生した電車の人身事故のことをご存じでしょうか。19時すぎに、酔っ払って駅のホームから線路に転落した男性がいました。それを見た日本人のカメラマンと韓国人留学生の二人は、その男性を救助しようとして線路に飛び降りました。残念なことに、3人とも進入してきた電車にはねられて死亡したという事故がありました。似た出来事が2012年に横浜でも起こりました。父親が運転する車の助手席に座っていた女性が、電車の踏切で倒れていた男性を見ました。「助けなきゃ!」と思った彼女は、即座に車から降りて、遮断機をくぐって、踏切内の男性の救助に向かいます。男性は助かりましたが、残念ながら彼女は犠牲となりました。

心理学の実験によれば、人間は目の前に困っている人を見ると、反射的にその人を助ける行動を取ります。しかし、助けるべきかどうかと考えるための時間を与えると、自分にとってのメリット・デメリットを計算してしまいます。そして、デメリットが大きい場合、助けないことが多いです。

今日の三つの朗読に共通するテーマの一つは、呼びかけにすぐに答える、使命をすぐに答えることです。第一朗読では、神はヨナにニネベの人々に回心を呼びかけるために、「直ちに」出発するように命じられます。第二朗読では、パウロはコリントの信徒たちに、主が訪れる時が「迫っている」ことを警告して、妻のある人はない人のように、物を買う人は持たない人のように、今の状況に縛られないように呼びかけています。福音朗読では、イエスの呼びかけを聞いた二組の兄弟は「すぐに」網や船、親や職業を捨てて、イエスに従ったと、マルコは伝えています。まさに、神の呼びかけに対する理想の反応です。しかし現実的に考えると、必ずしも誰もが実践できるようなことではないです。ニネベの人々に回心を呼びかけるヨナ自身は、最初にその使命に逆らおうとしました。その結果、海に投げられ、魚の腹に三日三晩いたということになりました。ヨナのように、多くの場合、私たちは目の前に果たさなければならない使命に、何とか逃れようとする、あるいは何とか引き延ばそうとする傾向があります。

偉大な聖アウグスティヌスも同じです。彼は代表作の『告白』のなかで、次のような祈りの言葉を書き残しました。“Da mihi castitatem et continentiam, sed noli modo”「主よ、清さと節制を私に与えてください。しかし、今ではない」。アウグスティヌスもそれまでの生き方を捨てて、清らかな人になりたい、神様に自分を与えたい、全てを捨てて主に従いたいと考えています。しかし、心のどこかで常に自分のための部分を残しておきたい。もう少しだけ自分の意志を通したい。いつかは全てを捨てて主にだけ仕えたいが、それは「今、すぐ」ではない。アウグスティヌスの気持ちに私たちも共感できると思います。しかし、最初の弟子たちと同じように、主は私たちから今ここで徹底したコミットメントを求めています。

アウグスティヌスの言葉に共感しながらも、無条件に今ここで、目の前にある使命を果たしていく勇気と力が与えられますように祈りたいものです。

 
メッセージ - B年 年間

福音朗読(ヨハネ1:35-42)の弟子たちの召命の場面で印象的なのは、「見る」という言葉が何度も出てくることです。まずヨハネの二人の弟子が歩いているイエスを見つめ、ついてくる二人をイエスが見て、彼らはイエスがどこに泊まっているかを見、そしてそのうちの一人であるアンデレが兄弟シモンをイエスのもとに連れてくると、イエスはシモンを見つめて呼びかけます。

福音書が書かれたギリシャ語では、これらの「見る」は異なる動詞が使われていますが、それでも繰り返される「見る」に関する表現が、召命という出来事におけるイエスと弟子たちとの間のお互いに向き合う姿、両者のつながりをよく表していると感じられます。

私たちの信仰は盲目的なものではなく、主イエス・キリストへの真剣な向き合いから生じてくるものです。私たちに向けられているまなざしに気づくことができるよう、よく目をこらして呼びかけを見逃さないようにしたいと思います。