メッセージ - B年 降誕節

イエス様は聖書のある場面でこう言っていました。「あなたがたは、地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない(マタイ6:19-20)」と。

きょうの福音で描かれた三人の博士のエピソードを考えて見ると、彼らはとても素晴らしい模範を見せてくれました。この三人の博士は、当時、彼らが経済的に恵まれたし、教育的にもとても知識のある人たちでした。普通なら、人生はこれほどの財産を持っているなら十分幸せだと思います。旅行をしたり、自分がしたいことは、すべてお金によってできるはずだったと思います。また、それほどの知識を持っているならば、地位や名誉や名声を作っても、悪くないと思います。しかし、三人の博士にとって、それが人生の目的だと思っていませんでした。逆に、お金や財産、また自分の知識を通して「人生の最高の目的を探し求める」ということです。そしてその目的は「救い主に直接会いたい」という気持ちから来るものでした。その人生の主な目標を達成するために、ずっと、旅をしていたのです。遠いペルシャの国から、ナザレまでの遠い旅行に要した時間、命の危険、旅行に伴う費用の面など、大きな犠牲を払ってやってきました。本当に、素晴らしい信仰の模範を見せてくれました。彼らが、「黄金、乳香、没薬」という地上の一時的な価値あるものよりも、「救い主への信仰」という永遠になくならない価値あるものとして探し求めたのです。彼らにとって、これこそが、「人生の誇りものだろう」と思います。

わたしたちは三人の博士みたいに黄金、乳香、没薬という価値のある物ほど、手の中にはないかもしれません。無理矢理にそのような物を探して、神に捧げる必要はありません。むしろ、大切なのは、キリストへの信仰の内に生きることを自分の人生の最高の目標とすることです。なぜなら、信仰こそが永遠に価値あるものだからです。そして、自分の命を「神に捧げる」ということです。それがキリストの一番望んでおられることです。なぜなら、自分の命はかけがえのないものだからです。しかも、自分の命は黄金、乳香、没薬より永遠に価値あるものだからです。

 
メッセージ - B年 降誕節

今日祝う聖家族という日は、カトリック教会の歴史としてはかなり新しい習慣です。元々は300年程前にカナダの司教と信徒のグループで祝い始めたものでしたが、それが広まって、正式に祝日となったのは1900年代に入ってからのことです。この日には、毎年、イエスの幼年時代の話を聞いて、家族というものを考えることが大きなテーマとなっています。

この祝日は、3人で構成される聖家族という小さな家族に目を注ぎながら、自分たちの家庭を振り返ってみることが大切だと言えるでしょう。この時期、年末年始には誰もが故郷や実家などに帰省したり、連絡を取ったりと、お盆と同様に自分達の家族を意識する時期でありますが、そうした季節に合わせて、教会がこの聖家族を祝う日を設定していることには大きな意味があると思います。

さて今日の福音では、主の奉献の祝日によく読まれる箇所が朗読されました。ルカ福音書では、この箇所の次には、イエスが12歳になって、エルサレムの過越し祭に行って両親とはぐれるといった場面があります。イエスがおよそ30歳になって家を出て、いわゆる公生活を始めるまでの間には、これら2つの話しか存在していないわけです。しかしこの2つの話の中に、イエスが人間として家族と暮らす30年間が凝縮されているのです。養父のヨセフはその後聖書に登場しませんが、どうなったのか、またイエスが成長する間にどのようなことがあって、人間としてのイエスの思想や倫理観を作っていったのか、そうしたことは福音書には何も書かれていません。当然、福音書の記者たちも、イエスの少年時代のことはわからないですし、弟子たちと過ごす間も、イエスは自分の家のことをあまり語らなかったのかも知れません。ですが、その語られない家族との生活の中で、間違いなくイエスは育って、現代にまで伝わる教え、言葉を残す、そうした人物となったわけです。そこにはどういう家族、両親の影響あったのか、生活の環境がどうだったのか、このような隠れている福音書の行間というものを、あくまで想像の域は超えないかも知れませんが、黙想してみる、そしてその家族の姿に、今のキリスト者の家庭はどうならっていけるだろうか、そうしたことを考えてみることも、今日の聖家族の日を祝う意味であると言えるのではないかと思います。私たちは普段、福音書の言葉から様々なメッセージを受け取りますが、今日は「福音書の行間から福音を読む」という、いつもとは少し違った読み方で、聖家族の何気ない毎日や、イエスと両親との生活などを黙想してみてはいかがでしょうか。

今日は大晦日であり、1年間で最後の日曜日、主日でもあります。今年1年間の日曜日の集いに感謝するとともに、様々な事情で教会に行くことが出来ない方々のためにも心を合わせて祈りましょう。そしてまた明日から迎える新たな1年の上に、神の豊かな恵みが注がれるように、全てのキリスト者と心を合わせながら、聖家族の日をお祝いしましょう。

 
メッセージ - B年 降誕節

今日の主の降誕夜半のミサでは、イエスの誕生の次第が描かれています。ヨセフとマリアは宿屋に泊まることができずに、生まれたイエスを飼い葉桶に寝かせた様子が描かれており、とても王の誕生とは思えないような様子が描かれています。そしてその誕生が最初に告げ知らされたのは、羊飼いたちでした。当時の羊飼いは社会的に低い地位の人たちであり、あまり尊敬される職業ではありませんでした。天使たちは「民全体に与えられる喜びを告げる」と羊飼いたちに伝えていますが、イエスは小さな人々、特に希望を必要とする人々に対しての王であったことが分かります。

私たちのクリスマスの喜びは、悩む人々、苦しむ人々に近づくことにあるように思えます。それは苦しむ人々のために現れ、救いの喜びを告げ知らせたイエスのように、私たちも喜びを分かち合い、人々に近づこうとすることこそが私たちのクリスマスの喜びであり、イエスがこの世に生まれた意味だと言えると思います。今日の福音書の冒頭では、人口調査の記事が最初に書かれていますが、主の降誕は決して過去のおとぎ話ではなく、神がかつて行われたわざであり、そのわざは今、私たちの間でも行われています。だからこそ今日主の降誕を祝う私たちは、この喜びを人々に近づき、平和を築くように召されていると言えます。

 
メッセージ - B年 待降節

イスラエルの歴史の中で、神はご自身が「共にいる神」だということを示しています。第一朗読に、繁栄したダビデ王が「神の家」を建てる計画をしていた時に、神は預言者ナタンを通してダビデ王にその計画を考え直すように語られました。ダビデは神の家を建てようとするが、それよりも大事なことを忘れているからです。ダビデ王は神の家を建てることで、神がイスラエルの王や民の間に留まるようにしたかったのです。しかし、神が彼とずっと共にいることを忘れています。偉大な王になったダビデが忘れているのは、自分を「牧場の羊の群れの後ろから選んだ」のは神ご自身です。サウルに変わってイスラエルの王にしたのも、神ご自身です。そして、彼の敵を抑え、偉大な王たちに並ぶ繁栄を与えたのも、神ご自身です。神が彼と「共にいて」くださるからです。神はダビデ王がまずその確信をしっかりと心に銘記して欲しかったです。

結局、神の家を建てる計画はダビデの息子ソロモンによって実現されました。しかし、ダビデ自身も、息子ソロモンも、そしてイスラエルの民の心は、神からどんどん離れていくのです。その神の家、神殿が破壊された後、建て直されました。しかし、さまざまな辛い経験に直面する中、イスラエルの民の心の中には、神が「共にいる神」であるという確信が次第に薄れていきます。

長い歴史を経て、その確信が消えそうになった時に、ガリラヤのナザレで天使ガブリエルは一人のイスラエルの娘、マリア様に告げました。「恵まれた方、主はあなたと共におられます」と。ダビデ王を含め、いく世代ものイスラエルの民が忘れそうになった「共にいる神」への希望を捨てなかったイスラエルの娘がいます。その娘、マリア様ご自身は決して楽な状況の中にいるわけではありませんでした。結婚をしていないのに子供を産むという使命を受けるべきか、難しい決断に迫られました。理解し難い天使の言葉をマリア様は素直に受け入れることが出来ませんでした。しかし、戸惑いながらも、マリア様は「私は主のはしためです。お言葉どおりになりますように」と答えました。その言葉がマリア様の口から出ることが出来たのは、「主があなたと共におられます」という天使の言葉が単なる形だけの挨拶ではなく、マリア様自身の確信、マリア様が日々培っている信仰だからではないでしょうか。

マリア様が天使のお告げにすべて納得した上でイエスを産むことを受け入れたのではありません。恵みを受けるためには、全てのことを納得する必要はないです。マリア様の中に大きな疑問が残ります。その疑問は、馬小屋で産まれた我が子を飼い葉桶に寝かせた時に更に深まっていきます。なぜこのようなことが起こるのでしょうか。神は何を望んでいるのでしょうか。しかし、十字架の傍らでそれらの疑問が解ける時まで、マリア様はその全てを静かに心の中に思い巡らすことが出来ました。「神があなたと共におられます」という天使の言葉をマリア様は確信しているからです。

もうすぐ来る「インマヌエル、共にいる神」を心から迎えることが出来ますように。

 
メッセージ - B年 待降節

ヨハネ福音書は、「イエスが誰なのか」に関心があります。ですから、たとえば福音書の序文とされることろでは、肉となって私たちの間に宿られた「言(ことば)」だと言われていますが、他にも「命のパン」(6:35)、「良い羊飼い」(10:11)、「復活であり、命」(11:25)、「道であり、心理であり、命」(14:6)などと言われています。

今週の福音朗読箇所(ヨハネ1:6-8、19-28)では、イエスより先に洗礼者ヨハネが登場し、彼のアイデンティティが問われます。エルサレムのユダヤ人たちから「誰なのか」と、メシアなのか、エリヤなのか、あの預言者なのか、と尋ねられますが、ヨハネはそのいずれでもなく、自分は「『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と宣言します。そして自分のことだけではなく、イエスについて「その人は自分の後から来られる方で、自分にはその履き物のひもを解く資格もない」と語ります。

洗礼者ヨハネの生涯は決して楽なものではなかったと思いますが、それでも彼は、ヘロデに殺されるまで、最後まで自分が誰であるか、何のために生きているのか、という自身の使命をまっとうしました。彼がそうすることができたのは、自分自身とイエスについてよく知っていて、どういう関わりをしていくか、自分が「後から来られる方」のために何をするべきかという、自分自身の使命をはっきりと見出すことができたからでしょう。

待降節は、イエス・キリストの到来の意味を問うときでもありますが、同時に、それが私たちにとってどういう意味なのか、そしてそれに対して私たち自身がどう応えて生きるのか、自分の生きる意味を問うときでもあります。洗礼者ヨハネは、闇を照らす光として来られた方の証しをする、ということを自分の使命としました。貧しさの中に、謙遜のうちに生まれ、病気の人、罪人、弱い人、苦しんでいた人に手を差し伸べ、十字架の上で命を献げるまで愛を貫いた、イエスの生き方と私たち自身の生き方をどうつなげるのか、が問われています。