メッセージ - B年 年間

皆さんには、憧れの有名人はいますか。歌手だったり、スポース選手だったりするのではないでしょうか。自分にとっての「アイドル」と言い換えることができるかもしれません。きっとその人から影響を受けて、「将来あの人のようになりたいなぁ」と思うこともあると思います。

さて、キリスト教徒にとっての「アイドル」は、イエス様であってほしいですが、皆さん、どうでしょうか。また、キリスト教徒に限らず、歴史上、1番人気の人と言っても過言はないと思います。でも、どうしてでしょうか?今日のマルコ福音書には、その答えとなるような事が描かれています。イエス様はカファルナウムの会堂で、二つの出来事が起きます。まず、会堂でイエス様は権威あるものとして皆に教えになり、更に汚れた霊を追い出しました。その時、これを見聞きした人は、皆驚きました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。汚れた霊に命じると、そのいうことをきく」とマルコは記録しています。しかし、その信仰的な出来事を体験した人の中に、イエス様を信じるように改心した人はいませんでした。人々はただ驚くというレベルまででした。では、私たちはどうでしょうか?

私たちはよく聖書を通し、イエス様の御言葉を聴き、驚き、喜びます。しかし、イエス様ご自身を愛するか、御言葉を信じるかどうか、それが一番大切です。信仰に対して驚くだけでは足りません。この言葉を耳にし、理解して、心で信じ、行動をもって他の人に分かち合わなければなりません。なぜなら、御言葉は生きているからです。

今日の福音書には、私たちがイエス様とその教えに対して驚きよりも、信仰をもって受け入れるというメッセージがあります。言葉や行いによって、良いキリスト者として私たちが毎日の生活の中でその教えを示しながら生きる事が必要です。イエス様の教えに従って、正しものになりましょう。人生において神の愛と善意を疑わないカトリック信者になりたいものです。人生は神の御業!わたしたちは罪深い人間ですが、神からの恵みを溢れるほど受けることができます。ですから、神の偉大な愛と慈悲深さに感謝し、その御業に賛美を捧げ、神の言葉を黙想しましょう。

 
メッセージ - B年 年間

2001年1月26日、東京のJR 山手線新大久保駅で発生した電車の人身事故のことをご存じでしょうか。19時すぎに、酔っ払って駅のホームから線路に転落した男性がいました。それを見た日本人のカメラマンと韓国人留学生の二人は、その男性を救助しようとして線路に飛び降りました。残念なことに、3人とも進入してきた電車にはねられて死亡したという事故がありました。似た出来事が2012年に横浜でも起こりました。父親が運転する車の助手席に座っていた女性が、電車の踏切で倒れていた男性を見ました。「助けなきゃ!」と思った彼女は、即座に車から降りて、遮断機をくぐって、踏切内の男性の救助に向かいます。男性は助かりましたが、残念ながら彼女は犠牲となりました。

心理学の実験によれば、人間は目の前に困っている人を見ると、反射的にその人を助ける行動を取ります。しかし、助けるべきかどうかと考えるための時間を与えると、自分にとってのメリット・デメリットを計算してしまいます。そして、デメリットが大きい場合、助けないことが多いです。

今日の三つの朗読に共通するテーマの一つは、呼びかけにすぐに答える、使命をすぐに答えることです。第一朗読では、神はヨナにニネベの人々に回心を呼びかけるために、「直ちに」出発するように命じられます。第二朗読では、パウロはコリントの信徒たちに、主が訪れる時が「迫っている」ことを警告して、妻のある人はない人のように、物を買う人は持たない人のように、今の状況に縛られないように呼びかけています。福音朗読では、イエスの呼びかけを聞いた二組の兄弟は「すぐに」網や船、親や職業を捨てて、イエスに従ったと、マルコは伝えています。まさに、神の呼びかけに対する理想の反応です。しかし現実的に考えると、必ずしも誰もが実践できるようなことではないです。ニネベの人々に回心を呼びかけるヨナ自身は、最初にその使命に逆らおうとしました。その結果、海に投げられ、魚の腹に三日三晩いたということになりました。ヨナのように、多くの場合、私たちは目の前に果たさなければならない使命に、何とか逃れようとする、あるいは何とか引き延ばそうとする傾向があります。

偉大な聖アウグスティヌスも同じです。彼は代表作の『告白』のなかで、次のような祈りの言葉を書き残しました。“Da mihi castitatem et continentiam, sed noli modo”「主よ、清さと節制を私に与えてください。しかし、今ではない」。アウグスティヌスもそれまでの生き方を捨てて、清らかな人になりたい、神様に自分を与えたい、全てを捨てて主に従いたいと考えています。しかし、心のどこかで常に自分のための部分を残しておきたい。もう少しだけ自分の意志を通したい。いつかは全てを捨てて主にだけ仕えたいが、それは「今、すぐ」ではない。アウグスティヌスの気持ちに私たちも共感できると思います。しかし、最初の弟子たちと同じように、主は私たちから今ここで徹底したコミットメントを求めています。

アウグスティヌスの言葉に共感しながらも、無条件に今ここで、目の前にある使命を果たしていく勇気と力が与えられますように祈りたいものです。

 
メッセージ - B年 年間

福音朗読(ヨハネ1:35-42)の弟子たちの召命の場面で印象的なのは、「見る」という言葉が何度も出てくることです。まずヨハネの二人の弟子が歩いているイエスを見つめ、ついてくる二人をイエスが見て、彼らはイエスがどこに泊まっているかを見、そしてそのうちの一人であるアンデレが兄弟シモンをイエスのもとに連れてくると、イエスはシモンを見つめて呼びかけます。

福音書が書かれたギリシャ語では、これらの「見る」は異なる動詞が使われていますが、それでも繰り返される「見る」に関する表現が、召命という出来事におけるイエスと弟子たちとの間のお互いに向き合う姿、両者のつながりをよく表していると感じられます。

私たちの信仰は盲目的なものではなく、主イエス・キリストへの真剣な向き合いから生じてくるものです。私たちに向けられているまなざしに気づくことができるよう、よく目をこらして呼びかけを見逃さないようにしたいと思います。

 
メッセージ - B年 降誕節

イエス様は聖書のある場面でこう言っていました。「あなたがたは、地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また盗人が忍び込むことも盗み出すこともない(マタイ6:19-20)」と。

きょうの福音で描かれた三人の博士のエピソードを考えて見ると、彼らはとても素晴らしい模範を見せてくれました。この三人の博士は、当時、彼らが経済的に恵まれたし、教育的にもとても知識のある人たちでした。普通なら、人生はこれほどの財産を持っているなら十分幸せだと思います。旅行をしたり、自分がしたいことは、すべてお金によってできるはずだったと思います。また、それほどの知識を持っているならば、地位や名誉や名声を作っても、悪くないと思います。しかし、三人の博士にとって、それが人生の目的だと思っていませんでした。逆に、お金や財産、また自分の知識を通して「人生の最高の目的を探し求める」ということです。そしてその目的は「救い主に直接会いたい」という気持ちから来るものでした。その人生の主な目標を達成するために、ずっと、旅をしていたのです。遠いペルシャの国から、ナザレまでの遠い旅行に要した時間、命の危険、旅行に伴う費用の面など、大きな犠牲を払ってやってきました。本当に、素晴らしい信仰の模範を見せてくれました。彼らが、「黄金、乳香、没薬」という地上の一時的な価値あるものよりも、「救い主への信仰」という永遠になくならない価値あるものとして探し求めたのです。彼らにとって、これこそが、「人生の誇りものだろう」と思います。

わたしたちは三人の博士みたいに黄金、乳香、没薬という価値のある物ほど、手の中にはないかもしれません。無理矢理にそのような物を探して、神に捧げる必要はありません。むしろ、大切なのは、キリストへの信仰の内に生きることを自分の人生の最高の目標とすることです。なぜなら、信仰こそが永遠に価値あるものだからです。そして、自分の命を「神に捧げる」ということです。それがキリストの一番望んでおられることです。なぜなら、自分の命はかけがえのないものだからです。しかも、自分の命は黄金、乳香、没薬より永遠に価値あるものだからです。

 
メッセージ - B年 降誕節

今日祝う聖家族という日は、カトリック教会の歴史としてはかなり新しい習慣です。元々は300年程前にカナダの司教と信徒のグループで祝い始めたものでしたが、それが広まって、正式に祝日となったのは1900年代に入ってからのことです。この日には、毎年、イエスの幼年時代の話を聞いて、家族というものを考えることが大きなテーマとなっています。

この祝日は、3人で構成される聖家族という小さな家族に目を注ぎながら、自分たちの家庭を振り返ってみることが大切だと言えるでしょう。この時期、年末年始には誰もが故郷や実家などに帰省したり、連絡を取ったりと、お盆と同様に自分達の家族を意識する時期でありますが、そうした季節に合わせて、教会がこの聖家族を祝う日を設定していることには大きな意味があると思います。

さて今日の福音では、主の奉献の祝日によく読まれる箇所が朗読されました。ルカ福音書では、この箇所の次には、イエスが12歳になって、エルサレムの過越し祭に行って両親とはぐれるといった場面があります。イエスがおよそ30歳になって家を出て、いわゆる公生活を始めるまでの間には、これら2つの話しか存在していないわけです。しかしこの2つの話の中に、イエスが人間として家族と暮らす30年間が凝縮されているのです。養父のヨセフはその後聖書に登場しませんが、どうなったのか、またイエスが成長する間にどのようなことがあって、人間としてのイエスの思想や倫理観を作っていったのか、そうしたことは福音書には何も書かれていません。当然、福音書の記者たちも、イエスの少年時代のことはわからないですし、弟子たちと過ごす間も、イエスは自分の家のことをあまり語らなかったのかも知れません。ですが、その語られない家族との生活の中で、間違いなくイエスは育って、現代にまで伝わる教え、言葉を残す、そうした人物となったわけです。そこにはどういう家族、両親の影響あったのか、生活の環境がどうだったのか、このような隠れている福音書の行間というものを、あくまで想像の域は超えないかも知れませんが、黙想してみる、そしてその家族の姿に、今のキリスト者の家庭はどうならっていけるだろうか、そうしたことを考えてみることも、今日の聖家族の日を祝う意味であると言えるのではないかと思います。私たちは普段、福音書の言葉から様々なメッセージを受け取りますが、今日は「福音書の行間から福音を読む」という、いつもとは少し違った読み方で、聖家族の何気ない毎日や、イエスと両親との生活などを黙想してみてはいかがでしょうか。

今日は大晦日であり、1年間で最後の日曜日、主日でもあります。今年1年間の日曜日の集いに感謝するとともに、様々な事情で教会に行くことが出来ない方々のためにも心を合わせて祈りましょう。そしてまた明日から迎える新たな1年の上に、神の豊かな恵みが注がれるように、全てのキリスト者と心を合わせながら、聖家族の日をお祝いしましょう。