メッセージ - C年 降誕節

今年もクリスマスがやってきました。今日、全世界の教会が大きな喜びをもって幼子イエスの誕生を祝います。今日は神から特別な祝福を受ける聖なる日なのです。この日は、神が約束された救いの神秘について考えるよう私たちを招いています。インマヌエルは、私たちを罪の闇から永遠の救いへと導くために来られました。ですから、私たちは希望を持って幸せのうちに喜ぶべきなのです。そして、イエスを神の子と認めるための信仰の旅を、ますます力強く踏み出す貴重な瞬間なのです。

今日、読まれた朗読の中で「共にいる神」について深く描かれています。第一朗読の中で預言者イザヤは、平和の知らせと神の王の到来という良き知らせを喜ぶようにと預言しました。同様に、イエスの到来は普遍的な救いの意味を持っています。イエスは平和の君、救い主として来られるのです。また、第二朗読のヘブライ人への手紙では、神は預言者たちを通して、繰り返し、さまざまな方法でイスラエルの民に語りかけてこられたと説明されています。そして今この時、神は、イエスの受肉において、愛する御子を通して語られました。また、イエスが宇宙の創造に関わったと述べています。イエスは神の栄光であり、神の表象であると書かれています。イエスの臨在は罪の清めのためであり、その後、イエスは本来の栄光のうちに御父のもとに帰られました。これはヨハネ福音書の中で肉となった神の神秘を示しています。ヨハネは、「御言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」と書いています。初めにおられたのは御言葉であり、御言葉は神ご自身であったのです。天地とそこにあるすべてのものを造られたのは神であり、人間を造られたのも神であったのです。神は肉となって私たちの間に住まわれました。つまり、人間は尊い存在であり、神の心の中で特別な位置を占めているということです。神は他者の中に、人間という人格の中に存在するのです。ですから、キリストが人となられた出来事は、神ご自身のかたちに似せて造られた被造物である人間と、神がどれほど親密に結ばれているかを明らかにしているのです。偉大な神は、人類に親しみ、近づき、一体となられました。神は私たちのただ中におられるだけでなく、ご自分を開き、人類のために愛し、生き、死んでくださるために、実際に人間となられたのです。神はクリスマスに赤ちゃんの姿の御子イエスを通して人類に挨拶されます。彼はインマヌエル、私たちとともにおられる神です。イエスの誕生によって、私たちは新たな希望、すなわちイエスのうちに、また、イエスとともにある幸福と救いの希望を得るのです。彼はこの世に来られた真の光です。

私たちにとって、クリスマスのメッセージとは何でしょうか。クリスマスは良い知らせであり、平和のお祝いであり、神の独り子であるイエスの受肉を記念するものであります。これらはすべて、私たちが感謝すべき贈り物であります。私たちは皆、最初は良い知らせを受け取る者ですが、今度は良い知らせを伝える者とならなければなりません。みことばであり、いのちであり、光であるイエスへの信仰を通して、私たちの存在が出会うすべての人に祝福となりますように。また、クリスマスというお祝いを通して、神は私たちを新たにし、光の子としてくださいます。 なぜなら、真の光が私たちの心と人生に生まれ、私たちの人生の闇を取り除いてくださるからです。 ですから、私たちは平和の君、すなわち肉となって私たちの間に住まわれた御ことばの光の中で生き続けましょう。どうか、私達一人ひとりが自分の存在を通して神の愛を他の人に分かち合う事が出来ますように。

 

主のご降誕おめでとうございます

 
メッセージ - C年 待降節

教会の伝統によりますと、待降節の第3主日は、『喜びの主日』となっています。今日の典礼のテーマが『喜び』だということは、三つの朗読の中でよく現れています。第一朗読では、大国アシリアとバビロンに挟まれて、四方から攻められて希望を失ってしまったイスラエルに向かって、預言者ゼファニヤはこう語ります、『娘シオンよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心のそこから喜び踊れ』。なぜなら、神は不忠実なご自分の民イスラエルに対する裁きを退けて、イスラエルの敵を追いだされるからです。そして、神ご自身がイスラエルの真っ只中におられるからです。第二朗読では、使徒パウロは『主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい』。主はすぐ近くにおれるからです。福音朗読の中では、洗礼者ヨハネは民衆に福音、良い知らせを告げ知らせます。その福音、その良い知らせの内容は『あなた方に聖霊と火で洗礼を授ける、私よりも優れた方が来られる』と。正に、三つの朗読は一貫してクリスマスの喜び、主が来られる喜びを伝えています。主がご自分の民、希望を失ってしまった、もう救う様がない私たちの間にこられる喜びを伝えています。神が人となり、この世に来られたというのはどういうようなものでしょうか。逸話的な話ですが、次のようなエピソードがあります。

めちゃくちゃな人生を送ってしまったある人が死んで、まっすぐに地獄に入りました。そして、地獄の扉が閉められました。そのことを知った人々は、何とかして彼を地獄から救おうとしました。最初は、彼の親友が地獄に行きました。そして、扉を開けて、彼を出してくれるようにサタンに頼みました。もちろん、サタンはそれを許しませんでした。次に、その人の主任司祭が地獄に来て、サタンに『この人はそんな悪い人ではない。もう少し時間をあげれば、彼はきっと良い人になると思います。ドアを開けて、彼を出してください』とサタンに頼みました。しかし、サタンは許しませんでした。最後に、その人の母親が地獄に行きました。彼女は静かに地獄の扉に近づいて、サタンに次のように言いました。『扉を開けてください。扉を開けて、私も地獄に入らせてください・・・』。たちまち地獄の扉が開きました。

受肉は、正に、神が地獄に閉じ込められている私たち、救われる様のない私たちを救うために、愛を持ってご自分もその中に入る、そういうような出来事です。受肉は、正に、神の愛の業にほかなりません。私たちがクリスマスを喜ぶ本当の理由はここにあるのではないでしょうか。

神が、乙女マリアの体内で宿られ、一人の人間としてこの世に来られたのは2000前のパレスチナでの出来事です。しかし、受肉は、イエスが復活し、ご昇天なさったことで終わったものではありません。イエスはご自分のからだ、御聖体の内に存在し続けるし、また、キリストの体である教会、つまり、人間一人ひとりに存在し続けるのです。神が人となったというのは、私自身の中に、そして私がこの限られている人生の中で出会う人々全てに神は存在しているということをも意味します。認めたくなくても、今、となりにいる人の中にイエスの顔が秘められています。ですから、もし私たちが洗礼者ヨハネの所に来て『私たちはどうすればいいでしょうか』と訪ねるとしたら、彼は私たちに『人を愛の目で見ればよい、愛をもって接すればいい、そして、人を許しなさい』と言うでしょう。もし、それが出来なければ、主が来られるのを私たちは心から喜ぶことが出来ません。それが出来なければ、クリスマスが来ても、私のために地獄の扉は閉じたままになってしまいます。

 
メッセージ - C年 待降節

待降節は「主の降誕を待つ季節」と書きますが、「待つ」といっても、ただぼうっとして「待つ」のではありません。私たちは心を込めて準備して待ちます。

第二朗読のフィリピの教会への手紙(1:4-6、8-11)では、「キリストの日に備えて」愛をますます豊かにし、本当に重要なことを識別する力を身につけることが祈り求められています。

また、福音朗読(ルカ3:1-6)では、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は皆低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」というイザヤの預言(40:3-5)が引用されます。この預言の「荒れ野で叫ぶ者の声」は洗礼者ヨハネのことを言い表している、と語られますが、まさに彼は、イエスが活動を始める前に人々に悔い改めるよう宣べ伝え、イエスのために道を準備した人でした。

私たちも洗礼者ヨハネと同じように準備が必要です。イザヤ書の言葉のように、自分自身と他者を隔てている谷や山や丘をまっすぐな道にして、心を通わせ、愛が通れるようにするとき、そこにイエスがお生まれになる場所ができます。

 
メッセージ - C年 待降節

きょうから、待降節に入りました。典礼の色も変わりました。今までは、ずっと、緑色でしたが、待降節に入って紫色に変わりました。待降節と言えば、最も特徴的なシンボルは、アドベントクランツです。そのクランツに、4本のろうそくを差しておくのです。そして、そのロウソクを4週間にかけて、日曜日ごとに、1本ずつに、火を灯していくということです。そして、アドベントクランツに、常緑樹の葉を土台にして、その上に4本のろうそくを立てます。その冬の緑の葉は、希望また永遠の命を象徴しています。つまり人生において、どんなことが起きても、希望を失わないで忍耐強く生きることが大事です。きょうの福音朗読で、主イエスがおっしゃったように、「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき、荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからであると。しかし、このようなことが起こり始めた時に、まず、「身を起こして頭を上げなさい」とおっしゃっています。なぜなら「あなたがたの解放の時が近いから」です。言い換えれば「主イエスは、このような出来事が起こった時に、身を隠して、逃げなさい。世が滅び去り、裁きの日があなたがたに訪れるから」とは、言いませんでした。「身を隠し、頭を下げなさい」ということではなく、「身を起して、頭を上げなさい」とおっしゃいました。「信仰を身に付け、希望を持って生きなさい」という意味です。

主イエスは私たちに、「それは、恐ろしい出来事ではない、怖いものでもないのです。かえって、喜びの内に立ち向かってください。」と教えています。なぜでしょうか?その答えは、きょうの福音の28節に書いてあります。「あなたがたの解放の時が近づいているから」です。罪の暗闇から解放されて、救いや自由を得る時が来ると、きょうの第一朗読で預言者エレミアがおっしゃっています。また、人生において、どんなことがあっても、まず、気を落とさないで、希望を持って、信仰の内に生き、歩み続けてくださいと、きょうの第二朗読で使徒パウロが言っています。

どうか、きょうから、4週間にかけて、待降節を過ごしていく中で、まず、希望を持って、そして、この1年間の歩みを振り返りながら、深く反省して、主の御降誕を相応しい心で、迎えましょう。アーメン

 
メッセージ - B年 年間

今日、カトリック教会では「王であるキリスト」の祭日を祝います。また、教会の暦では大晦日にあたります。年間最後の日にこの祭日がある意味は、何でしょうか。「王であるキリスト」は天と地、すべての万物の王であり、世の終わりの日に、私たちを支配し、裁くために来られる方です。今日は私達の生活が、イエス様を中心にして送ることができているのか、つまりイエスを王として認める生活になっているのかを振り返る大切な日なのです。

今日読まれる朗読では、王であるキリストのことについて深く描かれています。第一朗読のダニエル書には、人の子が権威、威光、王権を受けられたことについて語かれています。興味深いことに、これらは人の子が世から受けるものではなく、父なる神ご自身から与えられたということです。それゆえ、その王権と王国は永遠です。また、黙示録は、キリストが栄光のうちに再臨し、今経験しているあらゆる苦しみや迫害を終わらせるという、信仰者の力と希望となることを繰り返し述べています。ヨハネ福音書ではピラトとイエスの会話が登場します。ピラトはイエスにユダヤ人の王であるかを問いただします。イエスは、自分の王国はこの世のものではないと説明します。明らかに福音書は、イエスを王であると宣言しています。その意味で、イエスは王の威厳を持っていますが、その威厳はこの世の華やかさではなく、優しさであり、人々の苦しみを分かち合う能力であり、愛の教えを人々に教える能力です。イエスの権威は、人類の救いのために十字架の道を選ぶというイエスの決断を通して証明されます。つまり、イエスの権威の冠は金で飾られた冠ではなく、イエスの愛の証としてのいばらの冠なのです。

王であるキリストの祭日を祝う中で何を学ぶことができるでしょうか。この祭日は私たちの1年間の信仰の旅の集大成となる日なのです。つまり、イエスが王であることを認めることによって、自らの信仰の集大成を経験するよう招かれているのです。なぜなら、イエスが宇宙の王であり、特に私たちの人生の王であると信じることによってのみ、私たちは、真理のあかしが生活の中で実現できるように、また、他の人々に忠実に仕えることを通して、愛の教えを実践することができるからです。また、皆さん一人ひとりが、宇宙の王、真理の王、私たちの心と人生の王であるキリストに倣うことができますように、平和の君であるキリストとともに永遠の救いに導かれるよう、心から私たちの人生を神の力にゆだね、感謝を捧げましょう。