| メッセージ - C年 年間 |
今日の福音で語られたイエスの「金持ちの例え」は、数ある例え話の中でも、なかなか理解しにくいものであります。朗読では省略しましたが、まず前半部分では、不正な管理人が詐欺のようなやり方で、恩を売って、いざという時のために備える話が読まれています。この話で主人は不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めた、というのが一つ重要なポイントとなっています。褒めた、という対象は、あくまでこの「抜け目のないやり方」であって、不正行為自体ではないことを理解しなくてはいけません。この管理人は、自分の将来が困難であることを予見し、必死に考えて行動したという、その賢さ、行動力の点で褒められているのです。
この話は、その後に語られる「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というイエスの言葉に繋がります。私たち人間も、死んで天の国に入るには、この世における行動が大切になります。不正にまみれた富、という書き方がなされているので、わかりにくいですが、これはこの世の財産を指しています。つまり、この世の財産をいかに有効に使って、天の国に入る準備が出来るか、ということをイエスは指摘しているのです。それは例えば宣教のため、施し、援助など様々な形があります。そうしたことに有効に財産を使うことで、神の救いに与る人々を増やして、自分が天の国に入る時に、その努力と行動を認めてもらう、あるいは、自分が救いへと導いた人々に迎え入れてもらうのだ、ということをイエスはこの例えで教えているわけです。不正な管理人が褒められた行動力を、私たちも天の国のために示すことの大切さが語られているとも言えると思います。
福音の後半では、小さな事に忠実でなければ、大きなことにも忠実でない、という言葉があります。ここでも、小さな事の例として不正にまみれた富が挙げられています。先ほど読んだ通り、この世の財産のことを指しているものです。神が人間に管理を任せている、この世の財産、時間、能力、あるいは地球の資源など、この世にあるものは、天の国からすれば小さなものです。しかし、そうした小さなものとされるこの世のものを、不正な管理人の例えのように有効に活用することが出来なければ、天の国、神のもとにある大きなものを任せられる人間にはなり得ない、というわけです。ただ、ここで忘れてはならないのは、イエスの「神と富とに仕えることはできない」という最後の言葉です。この世の小さなもの、富や財産を有効に活用することは大事ですが、私たちがそうした富や財産自体に必要以上に執着したり、自分の利益だけに考えが向いてしまったりしてはいけないわけです。この福音箇所は、私たちがキリスト者として、何を最も重視するものとし、何をその重視する物のために活用していくべきなのか、このことを改めて考えさせる例え話であると言えるのではないでしょうか。
この世のもの、財産や富というものを、現実として私たちが生きていく上で全て手放したりすることはまずできません。生きていくためには絶対に必要なものです。しかしそれ自体が私たちキリスト者におけるこの世の目的としてしまっては、神に仕えることはかないません。自分にとって本当に大切にすべきものは何であるかをよく考えながら、この世のものをその本当に大切なもののために有効に活用していくこと、そうした意識を持つことが肝要です。このことを忘れないためにも、今日の福音の言葉をよく黙想し、自分自身の日々の生活を今一度省みながら、キリスト者としての正しい生き方を見いだせるように、ともに祈ることと致しましょう。
| メッセージ - C年 年間 |
きょうの福音では、主イエスがご自分の弟子になるための三つの条件を述べられています
まず、第一の条件は、「自分や家族を憎む」ということです。主イエスは、「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに、自分の命であろうともこれを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と命じられたのです。ここで、注意したいのは、「憎む」という表現です。主イエスが語った「憎む(憎しみ)」には二つの意味があります。まず、一つ目は、「神への絶対的な愛」という意味です。この「憎しみ」とは、感情的な敵対を意味するのではなく、家族との関係を大切にしつつも、神への愛やイエス・キリストの教えへの従順が、より優先されるべきものだということです。二つ目は、「この世的な価値観からの解放」という意味です。この教えは、世俗的な価値観や地位、名誉、財産 等という自分の欲求や願望を優先するのではなく、神の意思に従うために、自己中心的なことを手放すことを意味します。
次に、第二の条件は、「自分の十字架を背負う」ということです。ここで注目したいのは、「自分の十字架」という表現です。つまり、重要だと思うのは、イエス様が私たちのまなざしを「自分自身」に向けるよう促してくださっている点です。あの人が、ではなく、この人が、でもないのです。他ならぬ、「この私」のあり方、生き方が問われています。要するに、「自分の十字架」とは、私たち一人ひとりに与えられている重荷であると同時に、何らかの使命であると受け止めることです。
最後に、第三の条件は、「自分の持ち物を捨てる」ということです。ここで、主イエスが語った「持ち物を捨てる」とは、文字通り物理的な財産を「完全に手放し、投げ捨てること」ではなく、「捧げる、提供する、執着しないこと」を意味します。神を唯一の頼りとし、物質的な安全や安楽に頼らないことを示します。神が不足なくすべてを与えてくださる存在であると信じ、委ねる行為です。
| メッセージ - C年 年間 |
イエスがファリサイ派のある議員の家での食事に参加したときの話です。イエスはその場にいた「上流階級」の人々に、へりくだるように、と語ります。現代の私たちの社会でも周りの人に対して「謙遜」を示すことは美徳ですが、イエスが教える「へりくだり」・「謙遜」は、少し異なる視点から語られているようです。
この箇所の前半では、婚宴に招待された人の立場のたとえを用いて、後から来た身分の高い人に席を譲る羽目にならないように、へりくだって上席ではなく末席に座りなさい、と言われます。そして後半では、同じような宴のたとえで、今度は招く側の立場から、貧しい人や体の不自由な人を招くように、とされています。この二つを合わせて考えると、まるで、「へりくだり」とは、「私はたいした人間ではありませんよ」という態度を見せることではなく、現実に弱い立場の人間として存在すること、痛みを抱えて生きることのように描かれています。
まさに、イエスのへりくだりは、十字架の上で罪人として死ぬことでした。その謙遜は、自身の命をもって示されました。
| メッセージ - C年 年間 |
あなたは狭い門から入ろうと努めていますか?ルカによる福音書は、イエスに従うという私たちの決意について深く考えるよう促しています。救われる人の数について尋ねられたとき、イエスは狭い門から入ろうと努めなさいと呼びかけて答えます。この狭い門は、キリストの教えに従った人生を送るために私たちが受け入れなければならない試練と犠牲を象徴しています。イエスは、多くの人が御国に入ろうとするが、閉ざされていることに気づくだろうと警告しています。
福音書から学べる3つの教訓があります。まず、狭い門。イエスは救いへの道を狭い門の比喩で説明しています。これは、多くの人が同じ目的地につながると考える広い門とは対照的です。これは、神の国に入るには努力、規律、そしてイエスの教えに従う決意が必要であることを示唆しています。
次の教訓は、御国を目指して努力することです。救いには努力が伴います。受動的な努力ではありません。「狭い門から入るように努めなさい」(ルカ13:24)という呼びかけは、救いを得るために必要な闘争や努力を暗示しています。どのようにすればいいのでしょうか?日々の祈り、聖書朗読、ロザリオの祈り、日曜ミサ、そして黙想の習慣を身につけましょう。信仰共同体で積極的に活動し、人々に奉仕し、信仰を分かち合いましょう。困難や試練を障害ではなく、成長の機会として受け止めましょう。
もう一つの教訓は、緊急性と準備です。時間は限られています。神の御国に入る機会は永遠ではありません。家の主人が戸を閉めるというたとえ話(ルカ13:25)は、神の招きに応じることの緊急性を強調しています。最良の準備は明日ではなく、今日です。回心を遅らせず、神の招きに日々従いましょう。
祈り:主イエスよ、あなたは私たちを狭い戸口からあなたの御国の喜びへと招いてくださっています。謙遜、奉仕、そして忍耐の道を示してください。アーメン。
| メッセージ - C年 年間 |
私たちの日常生活において、火は必要不可欠なものの象徴として捉えられると思います。その意味は、使用される目的によって善悪両面を含みます。火は創造と建設の象徴となることがあります。例えば、母親は火があるからこそ美味しい食事を調理できますね。また、火の力で寒さを凌ぐことができます。しかし、一方で火災が起きた時には破壊、滅びの象徴ともなります。そのため、私たちは火の機能を適切な意味と目的に合わせて賢明に活用する必要があります。また、共に繁栄する生活のために、何が良い選択なのかを選ぶ必要があります。
今日の読まれた福音書の中で、イエスは弟子たちに対して、イエスを愛し従うことの結果について、非常に厳しい助言を与えています。 主は言われました:「私が来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と。これはどういう意味でしょうか。これは、主のこの世への存在と影響力、そして聖霊が信者の心に燃え上がる働きを指しています。イエスがもたらしたこの火は、破壊するためではなく、人々の心を刷新し清めるためです。イエスが世界に来られた目的は、人間の心を愛、希望、そして新しい命の炎で燃え上がらせるためです。彼は弟子たちが聖霊の力の中で生き、信仰と奉仕において燃え上がることを望んでいます。
イエスに従う者として、イエスの愛の使命を実践することは決して簡単なことではありません。イエスとその使命を選ぶことは、私たちに近い人、愛する人からも拒絶や差別、迫害を受ける覚悟を意味します。しかし、絶望したり諦めたりしてはなりません。なぜなら、神の御手は常に私たちと共にあり、その恵みで導いてくださるからです。そのため、その火を消さないでください。むしろ、私たちが出会うすべての人、特に希望と信仰を失った人々、自分を拒絶する人々に、あなたの心の中のその火を分け与えてください。キリストの愛を、私たちの信仰を証しするための力と光として、与えられた人生の召命を実践することを通して、多くの人々が神から来る救いを見ることができるように、恐れず歩みましょう。
