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メッセージ - A年 年間

「心の貧しい人々は、幸いである」、「悲しむ人々は幸いである」、「義に飢え渇く人々は、幸いである」、「義のために迫害される人々は、幸いである」などがそうですが、そう考えると、他の「幸い」とされている人々も、この世的な価値観からすれば苦しんでいる人のことを指しているのかもしれません。「柔和な人々」はそのために人にいいように利用され、与えてばかりで自分は失うだけの「憐れみ深い人々」や馬鹿正直な「心の清い人々」は生き馬の目を抜く世の中では損をするばかり、「平和を実現する人々」は争いが常の世界で茨の道を歩んでいる、そういう理解があるのかもしれません。いわゆる山上の説教の真福八端では、いくつもの逆説的な「幸い」が語られています。

こうした人々が「幸い」とされていますが、その「幸い」とは一体何なのでしょうか。十年、二十年我慢すれば逆転して報いがある、ということではなさそうです。「天の国はその人たちのもの」、「その人たちは神を見る」、「天には大きな報いがある」と言われているからには、現世的な利益を期待するのは無理でしょう。

それでも心を貧しく、清く保ち、柔和で憐れみ深く、義を求め続けますか?そう問われている気がします。「幸いである」という言葉は力強い慰めの表現ですが、まずはその価値観を受け入れるかどうか、という問いが突きつけられています。

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メッセージ - A年 年間

現代には「人間の尊厳」という表現がよく知られていて、使われていますが、その元はどこにあるのでしょうか。人間の尊厳は人の本質であり根差すものです。人には大きな価値があり、聖書に描かれているこの価値は神によるものです。それは神に似せて、神との関係に招かれた人間の価値であり、尊厳です。

第一朗読の出エジプト記には次のような言葉が記録されています。「主は言われる、寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」と。イスラエル人は自分が体験した難民生活とその困難、さらに、神の導きと哀れみを思い出させ、実際困っている隣人の助けと哀れみを忘れないように律法に形付けられます。

律法のテーマは朗読されるマタイによる福音の中にも出ています。律法の専門家がイエス・キリストのところに来て「先生、律法の中でどの掟がもっとも重要でしょうか」と尋ねるのです。ところが、モーセの律法が含めるすべての掟は重要であることしたがって、それぞれの掟を比較することができないと良く知った専門家はイエスを試そうとしているのです。イエスはこの罠に気づいて申命記6・5とレビ記19・18を引用しお答えになるのです。「『心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である。第2も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいていす。」と。キリストは律法の掟を比較することではなく、その基本を教えておられるのです。神の十戒の最初の三つの掟は神に関する掟であり、それに繋がる七つの掟は隣人に対する掟なのです。

現代社会でもキリストの「愛の掟」を知っていることは大事です。人間の尊厳、元気な社会を持ち続けることは規則を守ることによるだけではなく、愛に促されるものだからです。「愛はすべてを完成する絆」だからです。

キリスト教信者である私たちの一人ひとりはこのような体験があるでしょうか。愛はすべての土台です。だから、神様が私たちを愛してくださったことにいつも気づいて応答し、日々豊かに実らせ、お互いに大切にすることができるように祈り求めましょう。

現代には「人間の尊厳」という表現がよく知られていて、使われていますが、その 元はどこにあるのでしょうか。人間の尊厳は人の本質であり根差すものです。 人に は大きな価値があり、聖書に描かれているこの価値は神によるものです。それは神 に似せて、神との関係に招かれた人間の価値であり、尊厳です。 第一朗読の出エジプト記には次のような言葉が記録されています。「主は言われる 、寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で 寄留者であったからである。」と。イスラエル人は自分が体験した難民生活とその 困難、さらに、神の導きと哀れみを思い出させ、実際困っている隣人の助けと哀れ みを忘れないように律法に形付けられます。 律法のテーマは朗読されるマタイによる福音の中にも出ています。律法の専門家が イエス・キリストのところに来て「先生、律法の中でどの掟がもっとも重要でしょ うか」と尋ねるのです。ところが、モーセの律法が含めるすべての掟は重要である こと したがって、それぞれの掟を比較することができないと良く知った専門家は イエスを試そうとしているのです。イエスはこの罠に気づいて申命記6・5とレビ 記19・18を引用しお答えになるのです。「『心を尽くし、精神を尽くして、あ なたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である。第2も、これ と同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者 は、この二つの掟に基づいていす。」と。キリストは律法の掟を比較することでは なく、その基本を教えておられるのです。神の十戒の最初の三つの掟は神に関する 掟であり、それに繋がる七つの掟は隣人に対する掟なのです。

現代社会でも キリストの「愛の掟」を知っていることは大事です。人間の尊厳、 元気な社会を持ち続けることは規則を守ることによるだけではなく、愛に促される ものだからです。「愛はすべてを完成する絆」だからです。 キリスト教信者である私たちの一人ひとりは このような体験があるでしょうか。 愛はすべての土台です。だから、神様が私たちを愛してくださったことにいつも気 づいて応答し、日々豊かに実らせ、お互いに大切にすることができるように祈り求 めましょう。

現代には「人間の尊厳」という表現がよく知られていて、使われていますが、その 元はどこにあるのでしょうか。人間の尊厳は人の本質であり根差すものです。 人に は大きな価値があり、聖書に描かれているこの価値は神によるものです。それは神 に似せて、神との関係に招かれた人間の価値であり、尊厳です。 第一朗読の出エジプト記には次のような言葉が記録されています。「主は言われる 、寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で 寄留者であったからである。」と。イスラエル人は自分が体験した難民生活とその 困難、さらに、神の導きと哀れみを思い出させ、実際困っている隣人の助けと哀れ みを忘れないように律法に形付けられます。 律法のテーマは朗読されるマタイによる福音の中にも出ています。律法の専門家が イエス・キリストのところに来て「先生、律法の中でどの掟がもっとも重要でしょ うか」と尋ねるのです。ところが、モーセの律法が含めるすべての掟は重要である こと したがって、それぞれの掟を比較することができないと良く知った専門家は イエスを試そうとしているのです。イエスはこの罠に気づいて申命記6・5とレビ 記19・18を引用しお答えになるのです。「『心を尽くし、精神を尽くして、あ なたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第1の掟である。第2も、これ と同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者 は、この二つの掟に基づいていす。」と。キリストは律法の掟を比較することでは なく、その基本を教えておられるのです。神の十戒の最初の三つの掟は神に関する 掟であり、それに繋がる七つの掟は隣人に対する掟なのです。

現代社会でも キリストの「愛の掟」を知っていることは大事です。人間の尊厳、 元気な社会を持ち続けることは規則を守ることによるだけではなく、愛に促される ものだからです。「愛はすべてを完成する絆」だからです。 キリスト教信者である私たちの一人ひとりは このような体験があるでしょうか。 愛はすべての土台です。だから、神様が私たちを愛してくださったことにいつも気 づいて応答し、日々豊かに実らせ、お互いに大切にすることができるように祈り求 めましょう。

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メッセージ - A年 年間

朗読: 第一朗読 イザ45:1, 4-6

第二朗読 1テサ1:1-5b

福音朗読 マタ22:15-21

第一朗読で、神はバビロニア捕囚に連れて行かれたユダの人々を連れ戻すために「油を注がれた人キュロス」を遣わした、と伝えています。「私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ・・・」。キュロスはユダの王でもなく、ユダヤ人でもありません。キュロスはペルシア帝国の王です。しかし、神はご自分の愛する僕ヤコブの子孫、ご自身が選んだ民イスラエルを救うために、他国の王を選び、その人を遣わしました。神の救いは普遍的なものだということを示しています。神様から見れば「身内」と「外部」の区別はないということです。救いはすべての人に開かれています。そして、すべての人が神様の前には救いの道具になれるということです。「私はあなたに力を与えたが、あなたは知らなかった」。神の救いの業は私たちが気づかない仕方で日々働かれています。

第二朗読で、パウロはテサロニケの信徒に励ましの言葉を送っています。彼らが神から選ばれたことを思い出させ、それに伴う使命について語っています。パウロは信徒たちのことで神に感謝しています。なぜなら、彼らは「信仰によって働き」、「愛のために労苦し」、「希望を持って忍耐して」いるからです。キリスト者となったテサロニケの信徒は、その選びに満足することなく、その選びに伴う使命を常に自覚し、忠実に果たしています。パウロ自身もそうですが、テサロニケの信徒たちも神の救いの道具になっているということです。

マタイ福音書で、イエスはローマ帝国に税金を払うべきか払うべきではないかというファリサイ派の人々のチャレンジを受けました。税金を皇帝に収めるべきだと答えれば、それはローマの支配を認め、神以外のものを神とすることを宣言することと同じです。逆に、否定すれば、それはローマへの反逆行為となります。その巧妙な罠に対して、イエスは硬貨に皇帝の肖像と銘があることを確認した上で、「皇帝のものは皇帝に」と答えました。納税の問題への回答はこれで充分ですが、イエスは更に付け加えました。「神のものは神に返しなさい」。ファリサイ派の人々は、硬貨に刻まれたローマ皇帝の肖像(姿)を見ています。しかし、自分自身こそが「神の似姿」であることを忘れています。少なくともイエスを罠にかけようとした彼らの態度は神の似姿である人間のあるべき姿ではありません。イエスは「神のものは神に」と付け足すことによって、自分を陥れようとするファリサイ派の人々のチャレンジを、「心理に基づいて神の道を教える」チャンスに変えたのです。宣教のチャンスに変えたということです。

10月18日は「世界宣教の日」です。一人ひとり、また教会共同体として、私たちは神の救いに呼ばれているだけではなく、救いの道具となる使命を受けています。イエスに倣って、現代社会の様々なチャレンジを「真理に基づいて神の道を教える」チャンスに変える知恵と勇気が与えられますように。

 
メッセージ - A年 年間

福音朗読の婚宴のたとえ(マタイ22:14)は天の国(神の国)を、王が王子のために催した婚宴にたとえた話です。歴史的な背景として、預言者たちやイエスによって伝えられた神のことばがユダヤ人に受け入れられず、そこから宣教が世界中に広がっていった様子を反映しているでしょうけれども、このたとえ話のどこに自分自身を置くかによって、受け取るメッセージも変わってきます。

もし自分を王の家来、特に後で大通りに出て行って人々を集めてきた家来として考えてみるとどうでしょう。家来たちは王に仕える者として、婚宴の準備ができていて、たくさんのごちそうが並んでいるのを知っています。けれども招待客が来ていないので、せっかくの婚宴が台無しになってしまう、そう残念に思っているところで王に命じられたのは、「あらかじめ招いておいた人々の代わりに、町の大通りに出て行って、見かけた者は誰でも婚宴に連れてきなさい」ということでした。

私たちはこの家来たちのように、イエスがのべ伝えたメッセージが素晴らしいものであることを知っています。それと同時に、そのすばらしさが十分に伝わっていないことも知っています。私たちは町に出て行って、見かけた人に、誰にでもその喜びを語り伝えるように、と命じられています。善人も悪人も関係ない、私たちがそれを判断するのではなくて、自分が好きか嫌いかに関わりなく、すべての人を集めてくるように、と言われています。誰かを外に放り出すかどうかを判断しているのは、王です。それは家来の仕事ではありません。私たちは、とにかくすべての人を婚宴の席へ、神の国へ招くように呼びかけられています。

たとえ話の中で、王は婚礼の礼服を着ていない人に対しても「友よ」と語りかけています。自分が気に入った人に対して愛を示すのは、それほど難しくありません。私たちはいつでもどこでも誰に対しても、「友」として誠実であろうとしているでしょうか。

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