メッセージ - B年 年間

今週の福音朗読箇所(マルコ9:30-37)では、弟子たちが自分たちの中で誰が一番えらいのかと議論している場面が読まれます。彼らは何よりも自分自身の利益や自尊心を大事にして、自分がえらくなりたい、自分を大きく見せたいと考えていました。それに対して、イエスは「一番先ではなくて、後になりなさい」、「仕えられるのではなくて、自分がすべての人に仕えなさい」と語り、目の前にいた小さな子供を抱き上げて「このような小さな者を受け入れなさい」と言いました。どこか遠くにあるあこがれや理想の偉い自分自身ではなくて、目の前にいる小さな存在を大切にしなさい、と強調しました。金持ちや権力を持った偉い人ではなくて、小さい人々、弱い人々、特に病気の人、苦しんでいる人、差別されている人、罪人と言われてさげすまれていた人に目を向けて手をさしのべていた、イエス自身の生き方そのままのことでした。この箇所の文脈はイエス自身が殺されることになる十字架に向かっている場面ですが、それでも自分の命の心配より、目の前の小さな子供のような存在を気にかけていました。

私たちも、大きな目標を持つのはもちろんいいことですが、その結果ばかりにとらわれて、今、自分の目の前に存在している小さなこと、小さな人のことを忘れてしまうことのないようにしたいと思います。大切なものは得てして、小さくて目立たないものです。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音は、ガリラヤ地方に戻ってきたイエスが、耳が聞こえず、話すこともできない人を癒す場面が読まれています。イエスが様々な悩み苦しみを持つ人を癒すという描写は、福音書の中でいくつか見られますが、その中でもこの箇所では、イエスの特徴的な動作が目を引きます。それは「天を仰いで深く息をつく」というものです。

このイエスの動作は「病人の苦しみと一つになったような」姿を表現しているものです。単にやるべきことをやって、はい終わり、ということでなく、そこには、助けを求めて自分の目の前に来ている人間一人ひとりの悩み苦しみそのものに寄り添い、共感し、分かち合いながら救いを与えるというイエスの姿があるのです。

自分の目の前に苦しんでいる、悩みを持つ人がいる、という場合、私たちはまずその原因を取り去ってあげるにはどうすればよいか、ということを考えます。当然ながら、問題を解決するためには、そうした動きが必要です。例えば機械であれば、故障している箇所を直す、あるいは原因となっている問題さえ取り除けば、何事も無かったかのように正常な活動を再開します。ですが、私たち人間はそうはいきません。心を持つ人間である限り、問題が解決したとしても、苦しんだ、悩みを持った経験、という思いは長く残り続けますし、問題が起こる前の状態に戻るにも時間がかかるものです。それが人間の心というものであるわけです。だからこそ私たちには、そんな複雑な心の内を分かち合える、共感し合える他の人間の存在が必要です。大きな悩み苦しみはもちろん、ほんの小さなことであっても、日常の生活の中で、互いに不満や愚痴を言い合ったり、聞き合ったり、そうした心と心を通わせられる存在が何よりも大切です。イエスは、同じ人間としてこの世に来られ、そんな人間の心を理解していたからこそ、苦しむ人に寄り添い、共感する姿を人々に示されたのではないでしょうか。そうしたイエスの姿から、他人に寄り添うことの大切さを学びつつ、私たち一人ひとりにも、イエスは寄り添ってくれているのだということを改めて思い起こしましょう。

さて、今日から私たち神言修道会は創立150周年を記念する1年を開始します。この150年という長い時間の中で、いつも私たちと、そしてあらゆる宣教活動の場に生きる人々にイエスが寄り添い、助けてくれていたことに感謝したいと思います。これまでの150年を大切にしつつ、またこれからの宣教活動の未来に向けて、神の新たな導きと共に、力を尽くしていくことが出来るように、私たちと心を合わせて祈りをささげましょう。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音では、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、食事の際に手を洗わない弟子たちを非難する場面が描かれています。当時は、モーセの教えを守るための規則が設けられており、ファリサイ派と律法学者たちは規定を守らなかったことに対する批判を行っています。これに対してイエスは「人の中から出てくるものが、人を汚すのである」と福音の中で教えられています。権威や規則といった目に見える分かりやすいものではなく、人の心、神のはからいといった、私たちの目に見えないものごとに本質があることをイエスは見抜いていたように思えます。その意味でファリサイ派の人々や律法学者が見ていたのは、分かりやすい規則や権威であり、人々のその規定を定めた本質的な部分を見逃していたようです。私たちも生活において、目に見える分かりやすい物質的なものに目を向けがちですが、その奥にある多くの人々の働き、そして私たちが生きている世界は神の恵みによって成り立っていることに、いつも思いを馳せなければなりません。私たちは日々の祈りを通して、そのことをいつも思い起こし、そして私たちの世界で働いている、目には見えない神の働きに感謝することができるよう、祈り求めていきましょう。

 
メッセージ - B年 年間

私たちは、毎日食事をします。それが体にとって必要不可欠であるからですが、また楽しみでもあります。しかし、時には苦手なものを前にして、体に良いものであるとはわかっていても口に運ぶのを躊躇することもあります。3日前に食べたものを覚えてもいませんし、今食べているこの食材が体の中でどうなっているのか知りもしませんが、たとえ理解できていなくても、血となり肉となりエネルギーとなって、食べるものが私の命を支えてくれています。

イエスはご自分を「天から降ってきた生きたパン」(ヨハネ6:50)にたとえ、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る」(ヨハネ6:54)と言われます。私たちはイエスの教えを100%理解していないでしょうし、聖体の秘跡の恵みを知り尽くしているのでもないでしょう。それでも、そこに意味がないわけではありません。食べ物と同じです。私たちは主キリストに生かされています。

 
メッセージ - B年 年間

今日の主日の福音朗読の箇所は、先々週から読まれている、ヨハネ福音書6章の続きです。

5つのパンと2匹の魚で満腹した5000人の群衆がイエスの後を追って、自分たちの先祖が出エジプトの時に荒れ野で天から降ってきたマンナを食べたように、彼らもイエスのもとにパンを求めてやってきます。しかしそれに対し、イエスは、食べたらなくなってしまうパンではなく、天からくだってきた命のパンである自分を求めるよう語ります。けれども、人々はお腹を満たしてくれるパン以上のものに心を向けることができず、つぶやいて不平を言いました。まるでお腹をすかせてモーセに不満を漏らしたイスラエルを思い出させる状況です。

このように群衆は、永遠の命を与えると言われる方に、一時的な空腹を満たすパンを求めました。また、このヨハネ福音書は、万物の根源である、人となられた神のことばについての語ることから始めますが、その命を与えるみことばであるイエスに対して、彼らは不平不満のつぶやきの言葉を投げかけました。

今、福音書の話を耳にしている私たちは、2000年後から見て、当時彼らは何もわかっていなかったんだなと、心の目が曇っているとはこういうことなのかな、と理解できますが、現在起こっていることについては、私たちも群衆と同じかもしれません。

見えている目の前のことの中に、見えない神の働きを見ることができているのか、大変な状況に振り回されて本当に大切なことを見失っていないか、神の御旨を識別できているのか、群衆の姿を他人事ではなく、謙虚に自分のこととして振り返りたいと思います。