メッセージ - C年 年間

今日の福音書にある主イエスの言葉から、この点に焦点を当てたいと思います。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」と。この聖句は非常によく知られていると思います。この聖句において三つの点が注目したいのです。

まず、第一目は、「どのように求めるのか」です。

「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」とはいずれも、熱心に追求し続けることを意味しています。ここで主イエスは、単なる処世訓を言っているだけでありません。むしろ、私たちが神に一生懸命求めるならば、神は必ずそれを与えて下さる、ということを言っているのです。従って、試練や困難があっても、信仰の内に希望を持って、目標に向かって、挑戦し続けるなら、道が開かれるはずです。

次に、第二目は、「何を求めるのか」です。

一般的に、私たちは人生の幸福や平和、健康や成功、救済や導き、愛や許し、などを求めることが多いです。しかし、聖書によると、神の国とその義をまず第一に求めることが大切です(マタイ福音6:33)。これは、神様が支配される世界と、神様の望まれる正しい生き方を、他の何よりも優先して求めるということです。

最後に、三つ目は、「神に求めることの注意点」です。

神に求める際に、まず、神の前に自分の力不足を認め、謙虚な気持ちを持つことが大切です。そして、求めることにおいて自分のためだけはでなく、他人の幸福や神の栄光のためにつながるような求めが重要です。また、自分の欲望や意志を優先するのではなく、神の御心に適うものを求めることが大事です。

皆さん、神は私たちの欲しいものを与えるよりも、人生において必要なもの、また意味のあるものを与えてくださるのです。アーメン。

 
メッセージ - C年 年間

今日の福音朗読(ルカ10:38-42)は、有名な姉妹マルタとマリアのお話です。イエスが自分の死と復活を予告し、後々、捕らえられて十字架につけられることになるエルサレムに向かって旅を始め、その途上でマルタとマリアが住む村に立ち寄りました。そういう状況の中で、まるで遺言のように神の国について語るイエスの足下に座って話を聞くマリアと、食事の準備などもてなしのために忙しく立ち働きながら、自分を手伝わない妹に不満をもらすマルタ。イエスはその二人を比べて、マリアは必要なこと・良い方を選び、マルタは多くのことに思い悩み、心を乱している、と言われます。

この出来事を外から客観的に見ている私たちにとっては、マルタではなくマリアの方がイエスの望んだことをした、というのはよくわかります。けれども、自分がその場にいてマリアやマルタの立場だったら、何が私たちにとってただ一つだけの必要なことで良い方なのか判断して実行できるか、というと話は別です。そしてそれが現在の私たち自身の日常のことだったら、本当に大切なことを選べ部ことができるでしょうか。

私たちは、はっきりした答えがない毎日を生きています。けれども、慰めであり励ましであるのは、マルタがしていたおもてなし自体も決して否定されているわけではない、ということです。マルタはただ多くのことに思い悩んで心を乱していた。私たちも同じです。自分自身と、他の人がしていることを比べて、妬みや不満から、他者をあるいは自分を裁いてしまうことがあります。そんな私たちに、イエスは「あなたに必要なことは一つだけだ、それを一生懸命、よそ見をしながらではなくて、心を込めてやりなさい」、そう語られているように感じます。

 
メッセージ - A年 待降節

愛といえば、ラテン語にこんな表現があります: “Ubi caritas et amor, Deus ibi est"「愛があるところには神がおられる」という意味です。この表現は、人生において、愛に満ちた神の存在を感じることができる愛の重要性を強調しています。ですから、私たちが他者に対して行う愛の行為は、私たちが神に近づき続けるための手段でもあります。

今日の朗読の御言葉の中では愛の掟と、神と隣人に対する愛の実現について深く描かれています。これはイエスが教えられた主要な掟であり、キリスト教の教えの中心です。 なぜかというと、愛は私たち人間の生活において、真の意味ある人間関係の基礎となるものだからです。第一朗読の申命記の中で、イスラエルの民が神の戒めと定めを守り、祝福と幸運を受けるために、心を込めて、生活の中で実行しなければならないことが強調されています。第2朗読では、コロサイの教会への手紙の中でパウロは、イエスにおいて示された、非常に偉大であった神の愛を強調しています。人間に対する神の愛の頂点は、人類の救いのためにイエスが十字架上で犠牲となられたことによって明らかです。さらに、ルカによる福音書では、イエスは愛の掟の実現について、行動で説いています。善きサマリア人のたとえ話を通して、イエスは愛が言葉や善意に限定されるものではなく、具体的な行動を通して表現されなければならないことを強調しています。それゆえ、真の愛は、背景や社会的地位に目を向けるものでもなく、また、文化、人種、宗教によって制限されるものでもないのです。

今日の典礼の朗読を通して、イエスに従う者として、私たちは愛に生き、他者、特に背景や社会的地位に関係なく、困難を経験している人々に積極的に真の愛を示すよう求められています。その愛は、人間に対する神の愛の反映でなければなりません。親切と憐れみの行為は、生きた真の信仰の現れであることを私たちは思い起こします。私たちは実際に愛の掟を実践しているでしょうか?自分の居心地の良い場所から抜け出して、他の人たち、特に助けを必要としている人たちに愛を示そうとしているでしょうか?私たちが日々生活において、神の愛にますます満たされ、強められ、キリストが私たちを愛してくださったように他者を愛することができるようになり、天国で永遠の命を得るにふさわしい者と成長することができますように。

 
メッセージ - C年 年間

今日の福音(ルカ10:1-12、17-2)では、イエスが72人を派遣する場面が読まれています。この箇所で最も目を引く一文はやはり「収穫は多いが、働き手が少ない」という言葉ではないかと思います。現代のカトリック教会、特に日本の教会では、司祭・修道者の召命が減少をいかに克服するかが一つの大きな課題となっています。

そんな状況にある現代の教会だからこそ、全てのキリスト者が洗礼・堅信を受けたことによってイエス・キリストの「共通祭司職」に与っている、という事実を再確認することが大切であると思います。確かにミサを挙行する、秘跡を執行する、というのは司祭の役割、いわば役職的祭司職です。ですが、教会はそれだけで成り立たせることは出来ません。普段から教会を支える、教会を運営する様々な役割を担う、新しく教会を訪れる人を導く、そうした日常の生活から私たち一人ひとりは、教会のために奉仕するように招かれているわけです。

今日の福音箇所では、72人の弟子たちが派遣されました。彼らは「使徒」として数えられる人々ではありませんでしたが、それぞれがイエスの役割を担って、派遣されていきました。彼らもイエスの祭司職を担っていたと言えます。同じように、現代の私たちも、それぞれがイエスの祭司職を担う者として、教会のあらゆる場面において支えとなること、一人ひとりが、様々な場面において働き手となること、そうしたことを改めて自覚する必要があるのではないかと思います。

司祭・修道者の召命は確かに減少していますが、信徒の数が同じように大きく減少しているというわけではありません。日本人だけでなく、在日外国人の信徒の方々の数は増え、むしろ司祭・修道者に求められる役割は大きくなっています。まさに収穫が多く、働き手が少ないのが日本の教会であると言えます。そのような時代の中で、私たち一人ひとりが自分に与えられたキリスト者としての使命に奉仕し、イエスの役割を担う者となることが出来るように、今日の福音箇所を心に深く刻んでおきたいものです。

 
メッセージ - C年 年間

イエスとペトロとの出会いはガリラヤ湖のほとりで起こりました。父と兄弟アンドレと共に網を直している時でした。仕事に夢中になっているペトロに「私に従いなさい。人間をとる漁師にする」と。イエスの呼びかけに答えて、ペトロは本職をも投げ捨てて、イエスについて回ってきました。真面目でひたむきなペトロの姿にイエスは目をつけていたことでしょう。弟子たちの間にペトロが中心的な役割を果たしていたのも驚くことではないのです。「あなた方は私を何者だというのか」という弟子たちへの大変重要な問いかけに、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えました。その見事な答えに、イエスはペトロに教会を築いていく使命を与えました。「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を立てる」。真面目でひたむきなペトロですが、あれから間もなく、ペトロはイエスを三度も知らないと否定しました。しかし、自分の弱さを抱えながらも、最後に、「あなたは私を愛しているのか」と三度繰り返し聞かれる時に、ペトロは「主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」と三度答えました。そして、ペトロは命をかけてその言葉を守り抜きました。

パウロは復活したイエスと出会いました。ダマスコに向かっていく途中でした。ひたむきに律法を守ろうとするパウロに「なぜ私を迫害するのか」とイエスは問いかけました。今までの熱心さは間違っていた方向だったことにパウロは気づきました。あれから、パウロは信じる人々を迫害する者から信仰を誰よりも熱心に伝える使徒となりました。しかも、今まで守ってきた律法を越えて、異邦人のための宣教の開拓者となりました。最後にパウロはイエスのために自分の命をかけて、信仰を守り抜きました。

ペトロとパウロ、二人は異なった道を歩みました。二人は異なった使命が任せられました。しかし、二人が共通するのはイエスへのひたむきな思いでした。二人はけっして完璧な人間ではないです。そうではなくて、つまずくたびに起き上がることを諦めない二人です。自分を変えることを惜しまない二人です。弱さを抱えながらも最後までイエスに従う「真の弟子」の模範です。