メッセージ - A年 降誕節

今日の典礼は主の洗礼です。クリスマスシーズンの喜びに満ちた終わりと年間の始まりを告げるものです。ヨルダン川で洗礼者ヨハネからイエスが洗礼を受けたことを記念するものです。また、イエスの公の宣教の始まりをも告げ、鳩のように降りてきた聖霊によって神の子としてのイエスの身分を明らかにしました。神の素晴らしい計画を常に信頼し、洗礼の約束を生きながら、信仰を成長させていきましょう。

皆さん、ご自身の洗礼を覚えていますか?洗礼の約束に従って生きていますか?あなたは神に愛されている息子、娘ですか?あなたは神の子と呼ばれるにふさわしいでしょうか?

今日のテーマは、イエスの洗礼とその重要性についてです。ヨルダン川でのイエスの洗礼は、四福音書すべてに記録されています。マタイによる福音書では、その時、イエスは自分が罪人であることを認める人々の列に加わります。ヨハネはイエスに洗礼を授けることをためらい、自分こそイエスから洗礼を受けるべき者であると主張します。しかしイエスは、「今は止めないでほしい。このようにして、私たちはすべての正しいことを行うのにふさわしいのです」と言われました。

イエスはなぜ洗礼を受けたのでしょうか?ヨハネの洗礼は、悔い改めと罪の赦しのためでしょうか?イエスが洗礼を受けた理由は3つあります。まず、洗礼に用いる水を清め、聖別するためです。イエスがヨルダン川に入ったことは、洗礼に用いる水が聖なるものであることを意味します。そのため、洗礼の際に司祭は用いる水を祝福します。次に、イエスは洗礼の秘跡という形で私たちを模範として導いてくださいます。イエスの弟子として、私たちもイエスの足跡に従うよう招かれています。私たちは水に浸かり、そして復活を通してイエスと共によみがえる必要があります。もう一つ、イエスは公の宣教に備えるために洗礼を受けました。実際、イエスの洗礼は第二の偉大な顕現です。それはイエスが「神の子」として誰であるか、そしてイエスが受けた使命を明らかにするものです。

イエスの洗礼では何が起こりましたか?天が開き、聖霊が鳩の姿をとってイエスの上に降り立ちます。すると天から声が聞こえます。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」この洗礼は、三位一体の三位一体のすべてを表わしています。御子が洗礼を受け、聖霊が鳩の姿をとって降り、そして父が天から語りかけます。

一方、洗礼の重要性とは何でしょうか?

第一に、洗礼は私たちを神に愛され、最も大切な子供とします。私たちは愛され、かけがえのない存在であるがゆえに、父なる神から最高の賜物を受けています。私たちは信仰、希望、そして愛という三つの徳性を受け継いでいます。なぜでしょうか?それは私たちが特別だからです。神は私たちを深く愛しておられます。

第二に、洗礼は私たちを天国の住人へと導きます。天国は私たちの永遠の住まいであり、地上は一時的な場所です。それは霊的な再生と神の国への入り口を意味します。洗礼によって、私たちは天国の門を開きました。では、どのようにして天国の扉を開くのでしょうか?謙虚で、正直で、聖なる者となり、神に従うことです。

第三に、洗礼は私たちに消えることのない特質を刻み込みます。それは私たちをキリストの体である教会の一部とします。この特質は、たとえ私たちが道を踏み外したとしても、自分が本当に何者であるかを忘れたとしても、消えることも、取り除くこともできません。

言い換えれば、洗礼はイエスが制定された最初の秘跡です。それは霊的な清めとキリストにおける新しい命を象徴しています。洗礼は私たちの誕生日のようなものです。洗礼によって、私たちはキリスト者としての人生に生まれ変わります。洗礼を覚え、祝いましょう。洗礼を大切にしましょう。神の目に喜ばれる者となりましょう。神のふさわしい子となりましょう。

祈り:主イエスよ、私たちがあなたによって洗礼を受けたので、福音の使者としてあなたの救いの使命に加わるよう選ばれたことを私たちに知らせてください。アーメン。

 
メッセージ - A年 降誕節

今日、カトリック教会はエピファニー「主の公現」の祭日を祝います。これは光を通して救い主はすべての国々に現れるという意味です。したがって、この祭日は、すべての国民のためのクリスマスとしても知られています。今日の典礼を通して、私たちは日々の生活体験一つ一つの中で、神の存在について考えるよう招かれています。

先ほど読まれた朗読では「光を通して示される救い主の姿」について深く描かれています。第一朗読では、預言者イザヤは、栄光に輝く光としての救い主の到来を預言しました。救い主は、闇の力の中に生きていたイスラエル人に神の救いを悟らせるために来られます。信じて受け入れる者は光に至り、救いを受けることができます。第二朗読のエフェソの教会への手紙においては、パウロは神の恵みの摂理について強調します。神はパウロに、啓示によって明らかにされた救いの神秘を告げ知らせるように託されました。福音の宣教のおかげで、ユダヤ人も異邦人も、すべての国民がイエス・キリストによって与えられた救いの約束を受け継ぎ、それにあずかる者となります。福音書の中では、マタイが平和の王であるイエスを見、礼拝するために東方から学者たちが訪れたことについて説明しています。彼らは星の導きによって、ベツレヘムでの飼い葉桶に寝かされている幼子のイエスを見つけました。彼らは大喜びで黄金、没薬、乳香の贈り物を捧げ、王であるイエスへの感謝と栄誉を表しました。

今日祝う主の公現を通して、私たちはどのようなメッセージを受け取ることができるでしょうか。まず、世の光であるイエスが私たちの生きているこの今、まさに、ただ中に現存してくださるということです。イエスはその信仰を信じるすべての人を照らすために来られ、永遠の救いを見出すように、私たちを導いてくださいます。次に、光に対する私たち人間の反応です。今日の福音では、それを、イエスに出会って礼拝するためにやって来たあらゆる国の代表である学者から学ぶことができます。彼らはイエスを、破滅ではなく救いを、悲しみではなく喜びを、敵意ではなく平和をもたらす王として、謙虚に受け入れ認めています。

これらのことから、謙虚に心を開き、聖霊の導きを求め、私たちの生活の中に光としての神の存在を実現できるようになりましょう。 また、自分たちが受けた洗礼の秘跡を通して、私たち自身が、家族、同僚、共同体、日々出会うすべての人々に対して、神の存在のしるしとなることができますように。そして、神の平和、喜び、愛をすべての人が感じることができるように、共に祈り求めましょう。

 
メッセージ - A年 降誕節

今日祝う聖家族という日は、カトリック教会の歴史としてはかなり新しい習慣であります。元々は300年程前にカナダの司教と信徒のグループで祝い始めたものでしたが、それが広まって、正式に祝日となったのは1900年代に入ってからのことです。この日には、毎年、イエスの幼年時代の話を聞いて、家族というものを考えることが大きなテーマとなっています。

この祝日は、聖家族を構成している子であるイエス、そしてマリアとヨセフという両親、この小さな家族に目を注ぎながら、自分たちの家庭を振り返ってみる、そうした日であります。年末年始は誰もが故郷や実家などに帰省したり、連絡を取ったりと、お盆と同様に自分達の家族を意識する時期でありますが、そうした季節に合わせて、教会がこの聖家族を祝う日を設定していることには大きな意味があると思います。

今日の福音ではヨセフが夢のお告げに従い、マリアと幼子イエスを守る場面が読まれています。しかしながら、その後ヨセフはほとんど表舞台に登場せず、彼がどのような生涯を送ったのか、またイエスが成長する間にどのようなことがあって、人間としてのイエスの思想や倫理観を作っていったのか、こうした内容は福音書に何も書かれていません。当然、福音書の記者たちも、イエスの少年時代のことはわからないですし、弟子たちと過ごす間も、イエスは自分の家のことをあまり語らなかったのかも知れません。ですが、その語られない家族との生活の中で、間違いなく人間としてのイエスは育ち、現代にまで伝わる教え、言葉を残す人物となったわけです。そこにはどういう家族、両親の影響あったのか、生活の環境がどうだったのか、このような隠れている福音書の行間というものを、あくまで想像の域は超えないかも知れませんが、想像してみる、そしてその家族の姿に、今のキリスト者の家庭はどうならっていけるだろうか、そうした部分を考えてみるのも、今日の聖家族の日には良い黙想の材料となるかもしれません。

そしてまた、今日は1年間で最後の日曜日、主日であります。今年1年の日曜日の集いに感謝し、これからも持ち続けることが出来るように、全てのキリスト者と心を合わせて祈りましょう。

 
メッセージ - A年 待降節

イエスが生まれる750年ぐらい前に、ダビデの子孫であるユダの王アハズの元に預言者イザヤが訪れて、今日の第一朗読にあるように、あの有名なインマヌエル預言を語ったのです。その時、ユダ王国は大きな危機にさらされていたのです。国が危険な状況の中に、アハズ王はヤハヴェに頼るのではなく、アシリアという大国に頼ろうとするのです。アシリアの力で守ってもらおうと考えていたのです。そこで、預言者イザヤがアハズの元に来て、王にはヤハヴェという力強い守りがいることを訴えました。「もしも神がイスラエルになさったこと、ダビデに約束したことを疑うのなら、今、主なる神にしるしを求めなさい」とアハズに訴えたのです。預言者に責められて、アハズは「私は求めない。主を試すようなことはしない」と答えたが、彼の心の中にはアシリアに頼る決断は既に固まっていたのです。そこで、イザヤは、「あなたがしるしを求めないなら、神ご自身がしるしを与える。乙女が身ごもって男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。インマヌエル、神が我々と共にいる。最終的に共にいて守ってくれるのは「大国アシリア」ではなく、「神ご自身」だということを約束したのです。

750年後、その約束が実現しようとした時に、もう一人のダビデの子孫がせっぱ詰まった状況に置かれていました。ヨセフが、婚約者マリアと一緒になる前に彼女が身ごもっていました。それを知った時に、ヨセフには裏切られた気もちがないはずがないです。しかし、正しい人、律法に忠実なヨセフが出した決断は「ひそかにマリアとの縁を切る」ということでした。なんと思慮深い紳士でやさしい男でしょう。しかし、神様はヨセフにそれ以上のことを求めるのです。人生の岐路に立っている時に、困った時に、神はヨセフに自分自身の中のかっと、自分自身の気持ちとの戦いを超えて、宗教的な決まりをも超えて、大胆なことを求めました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい」。訳の分からない理由で妊娠した妻を迎え入れること、生まれてくる子を我が子のように育てることはけっして単純なことではないです。ヨセフは一言も言わないが、彼の答えははっきりしています。

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。せっぱ詰まった時に、ヨセフは自分自身ではなく、社会の中の常識でもなく、宗教の決まりごとでもなく、神を信じるのです。神が共にいることを信じるからこそマリアを迎えいれたのです。神が共にいることを信じるからこそ、ヨセフはイエス、インマヌエルの父親となることができたのです。神が共にいるというヨセフの信仰を通して、聖霊によって宿られたイエスが同時にダビデの子孫となるのです。

せっぱ詰まった時に神は私達に大胆な決断を求めるのです。それは自分自身の安全でもなく、目の前の利益でもなく、世の中の政治的動向でもなく、宗教の決まりごとへの従順に基づいた決断でもないのです。「神が共にいてくださるから」という信仰に基づいた決断でなければならないのです。

クリスマスは後数日です。毎日私たちは様々な決断に迫られています。都合が悪い時にも、ヨセフのように、信仰を持って答えることが出来るように祈りながら、主のご降誕を迎えましょう。

 
メッセージ - A年 待降節

きょうの福音に記された出来事に基づいて、二点のことに注目したいです。

一点目は、弟子たちを派遣する洗礼者ヨハネ。

牢獄から二人の弟子をイエスのところに遣わしたことにおいて、三つの意味が込められています。まず、一つ目は、「確認と安心」のためです。ヨハネは投獄され死が間近に迫る中、自分の弟子たちを通してイエスに直接問いかけることで、自らの信仰を再確認し、安心感を得たかったと考えられます。次に、二つ目は、「弟子たちへの導き」のためです。イエスの奇跡や教えを弟子たち自身の目で見聞きさせるため、彼らが将来イエスを信じ、従うように仕向けたかったと考えられます。最後に、三つ目は、「公的な証言の要求」のためです。イエスに公の場でメシアとしての宣言を促し、人々に自身の役割(メシアの先駆者)を理解してもらおうとした可能性もあります。

二点目は、イエスの反応と命令。

イエスはヨハネの弟子の質問に対して、直接的な「はい」とは答えず、代わりに、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き、重い皮膚病を患っている人が清くなり、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、死んだ人が生き返り、貧しい人に福音が告げ知らされている。わたしにつまずかない者は幸いである」と命じました。このイエスの語られた「見聞きしたことを伝えなさい」という言葉には二つの意味があります。まず、一つ目は、イエスのこの命令は、預言者たちが預言したことと洗礼者ヨハネが宣言していることはすべて、事実であり、イエスの中に実現されたことを意味します。次に、二つ目は、伝聞や不確かな情報ではなく、個人の実体験や確実な根拠に基づくことの重要性を強調していると考えられます。

最後に、洗礼者ヨハネとイエスから学ぶべき重要な価値観が二つあります。第一に、洗礼者ヨハネから学ぶべきことは、神から与えられた使命を徹底的かつ責任を持って遂行することです。どんな困難に直面しても、信仰の証しを妨げてはなりません。第二に、イエスのメッセージから学ぶべきことは、ヨハネの二人の弟子に命じたことと同じように、現代の信仰や宣教において、私たち自身は知識力や教義だけでなく、神との深い関係と信仰の生きた経験は絶対的な基準(土台)だということです。