メッセージ - A年 年間

きょうの福音の中で、私たちの心に強く響くのは、イエスのこの言葉ではないでしょうか。「父や母、息子や娘をわたしよりも愛する者は、わたしにふさわしくない。」

この言葉を聞くと、「家族を大切にしてはいけないのだろうか」「自分を犠牲にしなければならないのだろうか」と少し戸惑いを感じるかもしれません。しかし、イエスは家族への愛を否定しているのではありません。むしろ、私たちの人生の中心に神を置くことの大切さを教えておられるのです。

神を第一にすることと家族を愛することは、本来対立するものではありません。イエスは別の箇所で「父母を敬いなさい」と教えておられますし、十字架の上でも母マリアを弟子に託し、その生活を気遣われました。ですから、「神を第一にする」とは家族への愛を捨てることではなく、神の愛に導かれて家族をより深く、正しく愛することを意味しています。

私たちは日々、多くのものを大切にしています。家族、仕事、財産やお金、夢や目標などは、どれも決して悪いものではありません。しかし、それらが人生の最高の価値となるのではなく、神を第一にするとき、それぞれが本来あるべき場所に置かれます。家族も仕事も人生そのものも、神との関わりの中で正しく受け止め、愛することができるようになるのです。

ですから、きょうのイエスの言葉は、「家族か神か」という選択を迫る言葉ではありません。そうではなく、「あなたの人生の中心には何がありますか」と静かに問いかける招きの言葉なのです。

今日の第二朗読でパウロは、「キリストとしっかり結ばれる者は、キリストとともに死に、またキリストとともに復活の栄光を受けることになる」と語りました。言い換えると、神やキリストを人生の第一にするなら、この地上で生きている間だけ恵みや祝福を受けるのではなく、永遠の命の恵みも受けることができるということです。

信仰とは、単に宗教的な行いを増やすことではありません。人生の最も深いところで神を信頼し、神を第一にして歩むことです。そのとき私たちは、自分自身も、家族も、周りの人々も、神の愛の中でより豊かに愛することができるようになるのです。

 
メッセージ - A年 年間

今日の聖書朗読は、キリスト者の生き方に関する重要な真理を私たちに示しています。それは、「神への真の証しは、しばしば苦しみを伴う」ということです。

第一朗読において、預言者エレミヤは神の前に自らの心をさらけ出します。彼は神の言葉を語ったがゆえに、人々から嘲られ、拒絶され、迫害されました。本来、神の言葉を届けるために遣わされた相手が、かえって彼に敵対したのです。しかし、それでも彼は沈黙することができませんでした。神の言葉は彼の内に燃える火のように宿り、語らずにはいられなかったからです。苦しみの中にあっても、彼は神から託された使命に忠実であり続けました。

今日の福音は、先週読んだマタイによる福音書における十二使徒への宣教命令の続きです。イエスが十二使徒を派遣するにあたり、弟子として生きる現実を語られます。

イエスは弟子たちに、神の言葉を宣べ伝えることが決して容易な道ではないことを前もって教えられます。「弟子は師にまさるものではない」と主は言われます。師であるイエスご自身が拒絶と苦しみを経験されたのであれば、弟子たちも同じ道を歩むことになるのです。

しかしイエスは、だからといって恐れてはならないと励まされます。弟子たちは迫害や苦しみの中にあっても、恐れることなく神の言葉を証しするよう招かれています。神はご自分の者たちを見守り、その苦しみの中にあっても決して見捨てることはないからです。

このメッセージは、私たち一人ひとりの日常生活にも向けられています。私たちの多くは、エレミヤや使徒たちのような激しい迫害を経験することはないかもしれません。しかし、キリスト者として生きる中で、信仰を証しするために何らかの犠牲を払うことはあります。正直であること、不正に反対すること、赦すこと、福音の価値観に従って生きることは、時として誤解や批判を招くかもしれません。しかし、そのような時こそ私たちはキリストの証人として生きているのです。

預言者エレミヤの勇気と、使徒たちの忠実さに倣い、私たちも恐れることなくキリストを証しする者となりましょう。預言者と使徒たちの土台の上に建てられた私たち教会は、証しする教会であり、必要であれば苦しむ教会でもあるからです。

 
メッセージ - A年 年間

今日の福音朗読(マタイ9:36-10:8)は、「イエスの弟子である」とはどういうことかを思い起こさせてくれます。イエスは、自分一人だけで活動したのではなく、弟子たちと共に行動し、12人の使徒を選んで使命を与え、信頼して弟子たちを派遣しました。イエスが弟子たちを必要とした、ということです。

けれども選ばれた12使徒は、漁師や徴税人、熱心党の人もいて、決して有能で優れていたわけではなく、ひときわ信仰が深くて人格者だったわけでもありませんでした。彼らは弱さを抱え、時につまずき、裏切った者さえいて、十字架の前にはみんな逃げ出してしまいました。しかしイエスは、そんな彼らを一番近くにおいて大切にしたのであり、自分のミッションを彼らに託して自分の代わりに派遣するほどでした。

この12人の使徒の選びと派遣は、キリスト者である私たちの選びと派遣の物語でもあります。私たちは様々なところから集められましたが、それは何か特別な能力があったからでも、聖人だったからでもありませんでした。欠点ばかりで足りないところばかりですが、それでも私たちは呼ばれています。派遣されています。

 
メッセージ - A年 年間

申命記 8:2-3;14-16

エジプトから選ばれた民を解放した神は、彼らに約束されたカナンの地への40年間の旅の間、彼らを見守り、世話をされました。旅の間ずっと、神は民と共におられました。40年間、神は彼らと共にいて、ついに選ばれた民は自らを神に委ねました。イスラエルの神は民を養い、マナを与え、岩から水を与え、モーセの戒めを守るように教えられました。

―コリント10:16−17

神がご自身の選民を慈しまれたように、イエス・キリストはユダヤ教や異教からキリスト教へと移った人々に、キリスト教会におけるご自身の存在を示す聖餐のしるしを残されました。これらのしるしとは、イエスの聖体であるパンと、私たちの罪のために流されたイエスの聖体である血のしるしであるぶどう酒です。

ヨハネによる福音 6:51-58

イエスは、ユダヤの人々がご自身の神性を認識することを願って、直接語りかけました。そのために、イエスは出エジプト記から例を挙げました。そこでは、神がエジプトの奴隷状態から救い出した民を慈しみ、世話をされたことが描かれており、これはキリスト教における罪と魂の喪失の原型となっています。イエス・キリストは、ご自身を信じる者は皆、天国で永遠の命にあずかることができると説かれました。この永遠の命が実現する前に、キリスト教徒はパンとぶどう酒という形で、聖体におけるイエスの臨在のしるしを与えられています。日々の聖なるミサにおいて、私たちはイエス・キリストの体と血によって養われ、それによって、イエスを信じるすべての人に対するイエスの慈しみが私たちにもたらされるのです。

 
メッセージ - A年 年間

今日は三位一体の主日であります。私もそうですが、恐らく、多くの司祭にとって、この三位一体についてのお話が一年で一番難しいと感じるものだと思います。三位一体の教義自体は381年の第1コンスタンティノープル公会議で確定したものであります。私たちが唱えている二ケア・コンスタンティノープル信条が採択されたのも、この会議です。現代でもこの三位一体に関する研究は盛んで、様々な三位一体への理解の仕方が論じられています。しかし、そのどれもが難解で、一言でこういうものだ、と言えるようなものではないところが、また三位一体の理解の難しさを表しています。

普段から私たちは、「父と子と聖霊」という言葉を用いていますが、その言葉から、父、子、聖霊という3つが存在することは理解出来ます。この3つは、それぞれが、独自の「位格」を持っています。人格ではなく位格と呼ぶのは、人ではないからですね。しかし、それぞれの位格を持っていながら、神、という一つの本質を共有している、という考え方が三位一体であるわけです。この位格、というのは「ペルソナ」というラテン語がよく使われています。このことから基本的に三位一体は「一つの本質、三つのペルソナ」という言葉で理解され続けています。

教義としての三位一体の理解は、非常に難解ですが、三位一体の神を分かりやすく理解するヒントは今日の福音箇所の冒頭にあります。「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された」、つまり神という存在が、この世に生きる私たちを含め、全てを愛しているというわけです。使徒ヨハネの手紙に「神は愛である」という言葉がある通り、神とは、愛そのものであります。父なる神が愛であるなら、同一の本質である子なるキリストも愛であります。そして聖霊は、ニケア・コンスタンティノープル信条にもあるように、父と子から出るものでありますので、聖霊自体もまた愛であるということが言えます。つまり、三位一体の神とは、それぞれ表現される形がありながらも、等しく「愛」という存在である、と考えることが出来るわけです。この三位一体の主日において、私たちは、愛である神を信じていること、また、今日の第二朗読、そしてミサの冒頭の言葉にもあるように、神から注がれる愛の交わりの中に、私たち全ての人間が招かれていることをしっかりと心に留めておきたいと思います。愛である神の、その愛の中で私たちが生きているからこそ、私たち人間同士の中でも、他の人にも、自分自身にも、愛を持って生きる、接することを忘れてはなりません。こうして三位一体の神の愛というものを考えることで、ああ、だからイエスも「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」と教えたのだなと、また理解を深めることが出来ると思います。

この三位一体の教義、そして「愛」という言葉を心に留めながら、これから私たちは信条を唱えます。私たちの信じる神という存在を今一度確認し、自分自身の生き方の中に、その「愛」を多くの人に表していくことが出来るように、共に祈りましょう。