メッセージ - C年 待降節

教会の伝統によりますと、待降節の第3主日は、『喜びの主日』となっています。今日の典礼のテーマが『喜び』だということは、三つの朗読の中でよく現れています。第一朗読では、大国アシリアとバビロンに挟まれて、四方から攻められて希望を失ってしまったイスラエルに向かって、預言者ゼファニヤはこう語ります、『娘シオンよ、喜び叫べ。娘エルサレムよ、心のそこから喜び踊れ』。なぜなら、神は不忠実なご自分の民イスラエルに対する裁きを退けて、イスラエルの敵を追いだされるからです。そして、神ご自身がイスラエルの真っ只中におられるからです。第二朗読では、使徒パウロは『主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい』。主はすぐ近くにおれるからです。福音朗読の中では、洗礼者ヨハネは民衆に福音、良い知らせを告げ知らせます。その福音、その良い知らせの内容は『あなた方に聖霊と火で洗礼を授ける、私よりも優れた方が来られる』と。正に、三つの朗読は一貫してクリスマスの喜び、主が来られる喜びを伝えています。主がご自分の民、希望を失ってしまった、もう救う様がない私たちの間にこられる喜びを伝えています。神が人となり、この世に来られたというのはどういうようなものでしょうか。逸話的な話ですが、次のようなエピソードがあります。

めちゃくちゃな人生を送ってしまったある人が死んで、まっすぐに地獄に入りました。そして、地獄の扉が閉められました。そのことを知った人々は、何とかして彼を地獄から救おうとしました。最初は、彼の親友が地獄に行きました。そして、扉を開けて、彼を出してくれるようにサタンに頼みました。もちろん、サタンはそれを許しませんでした。次に、その人の主任司祭が地獄に来て、サタンに『この人はそんな悪い人ではない。もう少し時間をあげれば、彼はきっと良い人になると思います。ドアを開けて、彼を出してください』とサタンに頼みました。しかし、サタンは許しませんでした。最後に、その人の母親が地獄に行きました。彼女は静かに地獄の扉に近づいて、サタンに次のように言いました。『扉を開けてください。扉を開けて、私も地獄に入らせてください・・・』。たちまち地獄の扉が開きました。

受肉は、正に、神が地獄に閉じ込められている私たち、救われる様のない私たちを救うために、愛を持ってご自分もその中に入る、そういうような出来事です。受肉は、正に、神の愛の業にほかなりません。私たちがクリスマスを喜ぶ本当の理由はここにあるのではないでしょうか。

神が、乙女マリアの体内で宿られ、一人の人間としてこの世に来られたのは2000前のパレスチナでの出来事です。しかし、受肉は、イエスが復活し、ご昇天なさったことで終わったものではありません。イエスはご自分のからだ、御聖体の内に存在し続けるし、また、キリストの体である教会、つまり、人間一人ひとりに存在し続けるのです。神が人となったというのは、私自身の中に、そして私がこの限られている人生の中で出会う人々全てに神は存在しているということをも意味します。認めたくなくても、今、となりにいる人の中にイエスの顔が秘められています。ですから、もし私たちが洗礼者ヨハネの所に来て『私たちはどうすればいいでしょうか』と訪ねるとしたら、彼は私たちに『人を愛の目で見ればよい、愛をもって接すればいい、そして、人を許しなさい』と言うでしょう。もし、それが出来なければ、主が来られるのを私たちは心から喜ぶことが出来ません。それが出来なければ、クリスマスが来ても、私のために地獄の扉は閉じたままになってしまいます。

 
メッセージ - C年 待降節

待降節は「主の降誕を待つ季節」と書きますが、「待つ」といっても、ただぼうっとして「待つ」のではありません。私たちは心を込めて準備して待ちます。

第二朗読のフィリピの教会への手紙(1:4-6、8-11)では、「キリストの日に備えて」愛をますます豊かにし、本当に重要なことを識別する力を身につけることが祈り求められています。

また、福音朗読(ルカ3:1-6)では、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘は皆低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」というイザヤの預言(40:3-5)が引用されます。この預言の「荒れ野で叫ぶ者の声」は洗礼者ヨハネのことを言い表している、と語られますが、まさに彼は、イエスが活動を始める前に人々に悔い改めるよう宣べ伝え、イエスのために道を準備した人でした。

私たちも洗礼者ヨハネと同じように準備が必要です。イザヤ書の言葉のように、自分自身と他者を隔てている谷や山や丘をまっすぐな道にして、心を通わせ、愛が通れるようにするとき、そこにイエスがお生まれになる場所ができます。

 
メッセージ - C年 待降節

きょうから、待降節に入りました。典礼の色も変わりました。今までは、ずっと、緑色でしたが、待降節に入って紫色に変わりました。待降節と言えば、最も特徴的なシンボルは、アドベントクランツです。そのクランツに、4本のろうそくを差しておくのです。そして、そのロウソクを4週間にかけて、日曜日ごとに、1本ずつに、火を灯していくということです。そして、アドベントクランツに、常緑樹の葉を土台にして、その上に4本のろうそくを立てます。その冬の緑の葉は、希望また永遠の命を象徴しています。つまり人生において、どんなことが起きても、希望を失わないで忍耐強く生きることが大事です。きょうの福音朗読で、主イエスがおっしゃったように、「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき、荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからであると。しかし、このようなことが起こり始めた時に、まず、「身を起こして頭を上げなさい」とおっしゃっています。なぜなら「あなたがたの解放の時が近いから」です。言い換えれば「主イエスは、このような出来事が起こった時に、身を隠して、逃げなさい。世が滅び去り、裁きの日があなたがたに訪れるから」とは、言いませんでした。「身を隠し、頭を下げなさい」ということではなく、「身を起して、頭を上げなさい」とおっしゃいました。「信仰を身に付け、希望を持って生きなさい」という意味です。

主イエスは私たちに、「それは、恐ろしい出来事ではない、怖いものでもないのです。かえって、喜びの内に立ち向かってください。」と教えています。なぜでしょうか?その答えは、きょうの福音の28節に書いてあります。「あなたがたの解放の時が近づいているから」です。罪の暗闇から解放されて、救いや自由を得る時が来ると、きょうの第一朗読で預言者エレミアがおっしゃっています。また、人生において、どんなことがあっても、まず、気を落とさないで、希望を持って、信仰の内に生き、歩み続けてくださいと、きょうの第二朗読で使徒パウロが言っています。

どうか、きょうから、4週間にかけて、待降節を過ごしていく中で、まず、希望を持って、そして、この1年間の歩みを振り返りながら、深く反省して、主の御降誕を相応しい心で、迎えましょう。アーメン

 
メッセージ - B年 年間

今日、カトリック教会では「王であるキリスト」の祭日を祝います。また、教会の暦では大晦日にあたります。年間最後の日にこの祭日がある意味は、何でしょうか。「王であるキリスト」は天と地、すべての万物の王であり、世の終わりの日に、私たちを支配し、裁くために来られる方です。今日は私達の生活が、イエス様を中心にして送ることができているのか、つまりイエスを王として認める生活になっているのかを振り返る大切な日なのです。

今日読まれる朗読では、王であるキリストのことについて深く描かれています。第一朗読のダニエル書には、人の子が権威、威光、王権を受けられたことについて語かれています。興味深いことに、これらは人の子が世から受けるものではなく、父なる神ご自身から与えられたということです。それゆえ、その王権と王国は永遠です。また、黙示録は、キリストが栄光のうちに再臨し、今経験しているあらゆる苦しみや迫害を終わらせるという、信仰者の力と希望となることを繰り返し述べています。ヨハネ福音書ではピラトとイエスの会話が登場します。ピラトはイエスにユダヤ人の王であるかを問いただします。イエスは、自分の王国はこの世のものではないと説明します。明らかに福音書は、イエスを王であると宣言しています。その意味で、イエスは王の威厳を持っていますが、その威厳はこの世の華やかさではなく、優しさであり、人々の苦しみを分かち合う能力であり、愛の教えを人々に教える能力です。イエスの権威は、人類の救いのために十字架の道を選ぶというイエスの決断を通して証明されます。つまり、イエスの権威の冠は金で飾られた冠ではなく、イエスの愛の証としてのいばらの冠なのです。

王であるキリストの祭日を祝う中で何を学ぶことができるでしょうか。この祭日は私たちの1年間の信仰の旅の集大成となる日なのです。つまり、イエスが王であることを認めることによって、自らの信仰の集大成を経験するよう招かれているのです。なぜなら、イエスが宇宙の王であり、特に私たちの人生の王であると信じることによってのみ、私たちは、真理のあかしが生活の中で実現できるように、また、他の人々に忠実に仕えることを通して、愛の教えを実践することができるからです。また、皆さん一人ひとりが、宇宙の王、真理の王、私たちの心と人生の王であるキリストに倣うことができますように、平和の君であるキリストとともに永遠の救いに導かれるよう、心から私たちの人生を神の力にゆだね、感謝を捧げましょう。

 
メッセージ - B年 年間

今日の福音箇所は、非常に難解な終末論的性質の強い箇所であります。来週の「王であるキリスト」の日で、教会の暦が1年の終わりを迎えるということで、毎年最後の2、3週の主日には、こうしたエスカトロジー、終末論に関する福音が読まれることとなっています。

さて、その難解な今日の福音ですが、マルコ福音書というのは13章全体を通して、終末、世の最後の時にどういうことが起きるのか、ということを説明しています。今日の箇所は24節からとなっていますが、実際は13章全体を通して読まなければ、ほとんど意味が分からないものですが、少しでも理解が出来るように見ていきたいと思います。

イエスは、今日の24節以前の箇所で、近い将来に様々な苦難が起こることを預言しています。そしてそれはエルサレム神殿が破壊されること、使徒たちにも迫害の苦難が訪れる、あるいは偽者のメシアが現れる、という形で実際に起こったわけです。しかし、それで世の終わりが来たのか、と言われれば、そうではありませんでした。現に私たちは今という時代に生きています。今日の24節からの箇所は、まだ起こっていない、これから起こるであろうことが読まれたのであります。勿論、この聖書の言葉通りのことが起こるというわけではありません。特に24節からの言葉は、神という存在が、私たちの力の及ばない天体や星以上に大きく偉大なものであることの象徴です。そんな大きな力を持つ、神、そして人の子、つまりキリストが再びこの世に来られる、再臨、パルジアと言いますが、それがまだ起こっていないわけです。30節の通り、それらがみな起こるまでは、この時代は決して滅びないのです。ではそれはいつ来るのか、32節の通り、誰も知らないのです。

話を整理すると、この世の終わりの時、終末の時にはイエスのパルジアが実現します。つまりイエスが再びこの世に来られ、その時には27節の通り、イエスに選ばれた人々が集められます。その、いつ来るかもわからない時のために、私たちキリスト者は何を頼りに準備するのでしょうか、それは31節の通り、決して滅びないイエスの「言葉」なのであります。福音書をはじめ、イエスの言葉、そしてそれを受け継ぐ弟子たちの教えは、私たちの日常生活の上でも様々な指針、励まし、心に留めるべき注意として働きかけています。それと同時に、このイエスの言葉を信じる、そして実践することによって、私たちはこの世のことだけではなく、終末の時に向けた準備を行っているわけでもあるのです。32節以降にいつも「目を覚ましていなさい」というイエスの言葉が続きます。私たちは、いつ来るかわからない再臨の時をただ、待つのではなく、目を覚ましてイエスの言葉をこの世において信じ、実践していくこと、この重要性を今日の福音箇所は終末論的メッセージを通して教えてくれているのではないかと思います。

終末、と聞くと、恐ろしいことが起こるようなイメージもありますが、決してそれだけではありません。ただ、それに向けた私たちキリスト者としての心構え、準備というものは大事になってきます。私たちがイエスの言葉を通して良い準備が出来るように、改めて日々の生活を見直して行きたいと思います。