メッセージ - B年 年間 |
今日の主日の福音朗読の箇所は、先々週から読まれている、ヨハネ福音書6章の続きです。
5つのパンと2匹の魚で満腹した5000人の群衆がイエスの後を追って、自分たちの先祖が出エジプトの時に荒れ野で天から降ってきたマンナを食べたように、彼らもイエスのもとにパンを求めてやってきます。しかしそれに対し、イエスは、食べたらなくなってしまうパンではなく、天からくだってきた命のパンである自分を求めるよう語ります。けれども、人々はお腹を満たしてくれるパン以上のものに心を向けることができず、つぶやいて不平を言いました。まるでお腹をすかせてモーセに不満を漏らしたイスラエルを思い出させる状況です。
このように群衆は、永遠の命を与えると言われる方に、一時的な空腹を満たすパンを求めました。また、このヨハネ福音書は、万物の根源である、人となられた神のことばについての語ることから始めますが、その命を与えるみことばであるイエスに対して、彼らは不平不満のつぶやきの言葉を投げかけました。
今、福音書の話を耳にしている私たちは、2000年後から見て、当時彼らは何もわかっていなかったんだなと、心の目が曇っているとはこういうことなのかな、と理解できますが、現在起こっていることについては、私たちも群衆と同じかもしれません。
見えている目の前のことの中に、見えない神の働きを見ることができているのか、大変な状況に振り回されて本当に大切なことを見失っていないか、神の御旨を識別できているのか、群衆の姿を他人事ではなく、謙虚に自分のこととして振り返りたいと思います。
メッセージ - B年 年間 |
今日の御言葉を読んで黙想した時、私は小神学校にいた頃の貴重な体験を思い出しました。私は内陸にある神学校に通っていました。1年生から4年生まで約500人の神学生がいました。海へのアクセスはかなり遠かったので、神学生たちは週3回しか新鮮な魚を食べることができませんでした。食事の時間になると、各クラスは6人ずつの小グループに分けられます。テーブル当番の人の仕事は、他のテーブルから魚を探してきて、テーブルのメンバーに渡すことです。魚1匹を6人に配るのがルールでした。そして一緒に祈り、食べました。私たちは一切れずつしかもらえませんでしたが、それでも感謝しました。私はこの4年間の非日常的な経験から、「連帯とは与えることと分かち合うこと」であると学びました。
本日の朗読の中では、「連帯、すなわち心を与えること、分かち合うこと」について深く描かれています。第一朗読と福音では、わずかのパンで多くの人が満たされる奇跡が取り上げられています。第1朗読では、預言者エリシャを通して、神は20個のパンを増やして100人の人々に与えるという奇跡的なしるしを行われました。列王記によると、エリシャが自分のしもべを説得して命のパンを人々に与えたことが記されています。ヨハネの福音書では、イエス様が、5つのパンと2匹の魚の奇跡を行うことによって、神の配慮が示されています。イエス様は、普通では考えられない、とても足りないであろうわずかな食物を、感謝の祈りをして、人々に配り、多くの人々が満腹するまで食べさせました。イエス様はこのパンと魚の奇跡で何を強調したかったのでしょうか?
この奇跡を通して、彼らが信じている神は私たちの人生のあらゆる問題を気にかけてくださる愛の神であることを、イエス様は弟子たちと人々に食べるという生きるための基本的なことを通して、示して安心させました。神様の憐れみのゆえに、肉体的な問題も霊的な問題も満たされます。神の力によって、悲しみの涙を喜びの泉に変えることができます。神様がご自分に従う人々に求めることの最も大切なことは、信仰と信頼です。これは、キリストに従うすべての者が持たなければなりません。
洗礼の秘跡を通して、私たちは三位一体の神の愛に満ちた交わりに入り、命の源である聖体の秘跡を通して、すべての人に神の愛を与え、分かち合うように召されています。この朗読を通して、さらに私たちは、他者、特に困窮し、貧しく、のけ者にされ、忘れ去られ、苦しんでいる人々に対して心を向け、気を留め、連帯するようイエス様から招かれています。関心を持つことと連帯するということは、形だけの言葉ではなく、実際の行動を要求します。苦しんでいる隣人との連帯は、数学的な計算や損得勘定ではありません。他者との連帯とは、自分自身の時間やエネルギーを惜しみなく捧げることを意味します。たとえそのもの自体がわずかなものであっても、大きな愛に基づいたものであれば、それは私たちの助けを必要とする人々への感謝と祝福を生みます。
福音書に登場する、5つのパンと2匹の魚を持ってきた少年のように、私たちも、隣人に愛を与え、分かち合うよう神から召されています。こうして、悲しみの叫びは大きな喜びに変わり、神の御名は地においても天においても高められるのです。皆さん、どうか自分の心と持つすべてのものを、惜しみなく他者と分かち合うことを喜びとし、歩むことができる愛と信仰を願い求めましょう。
メッセージ - B年 年間 |
今日の福音で、イエスは「大勢の群衆の姿を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐み、いろいろと教え始められた」とあります。今日の福音のテーマの一つとして、羊飼いが挙げられますが、この福音の箇所でもイエスが人々を教え、導く羊飼いとして描かれています。第一朗読のエレミヤの預言書で読まれているように、当時の群衆にとって羊飼いは、苦難の中に散らされた羊を、希望へと導く王であり、指導者でした。同時に群れから迷い出た羊、散らされた羊たちを集めるために、遣わされた羊飼いでもあります。その意味でイエスは困難の中にある人々の道しるべであり、イエスはその生涯を通して、苦難の先にある希望を示してくださいました。
私たちが困難の中にある時、孤独を感じる時、私たちを憐み、そして探されているイエスを如何に信じることができるのかということがいつも試されています。困難の中にある時にこそ、私たちはその呼びかけの声に耳を傾ける必要があります。そして、わたしたち一人一人も、迷い出た羊をイエスのもとに呼び戻すように招かれています。すなわち私たちは、イエスの呼びかけに答えると同時に、人々の助けの手となり、イエスのもとに導くように召されていることをいつも忘れてはいけません。
私たち一人ひとりがイエスの羊の群れとして、いつもその呼びかけに答えることができるよう祈り求めていきましょう。
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きょうの福音書には、主イエスの力によって、二つの奇跡的な出来事が起きたことについて記されています。まず、一つ目は、主イエスの服に触れたことによって十二年間出血病を患っていた女性が奇跡的に治癒しました。そして、二つ目は、会堂管理者ヤイロの十二歳の娘を死から生き返らせたという奇跡です。このニ人の共通点は、どちらも、この世で手を尽くすべきことはすべて行なったものの、回復の見込みが得られず、キリストのもとに来た人たちでした。ヤイロは「娘が救われて生きられるように」(23)と願い、出血病の女性は、「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」(28)と思ってキリストに近づいてきました。彼らはただ癒されることだけでなく、主の救いを願ってキリストのもとに来ている人たちでした。
この二つの出来事を考えてみたいと思います。まず、ヤイロの娘のことですが、彼女は十二年間元気に過ごしてきたのに、重い病気になって、死んでしまいます。そして、出血病の女性は、十二年間病気で苦しみ、治療で財産も使い果たしましたが、結局病気は治らず、人生のすべてを失ったとも言えるでしょう。両者とも、人間の力ではどうにもなりませんでしたが、イエスを信じることによって、奇跡のみわざを受けました。
主イエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(34)と言われました。つまり、イエス・キリストのみわざを受けさせるのは信仰です。問題や悩みを持ちながら過ごすのが人生ですが、イエス・キリストは、そこに必ず解決を与えて下さいます。したがって、ここで最も重要なことは、病気の癒しを求めるよりも、まず、「イエスこそわたしの救い主だ」という信仰を持つことが一番大切です。なぜなら、主イエスの目が最初に注がれるのは病気ではなく、信仰だからです。キリストへの信仰をしっかり身につければ、肉体の癒しだけではなく、むしろ、心や魂も救われます。
最後に、一つ忘れてはいけないことは、神様は私たちに「幸せな人生」を与えるのではなく、「意味のある人生」を与えてくださるのです。アーメン。
メッセージ - B年 年間 |
今日の福音書を読んで黙想した時、私は父から学んだ信仰体験を分かち合いたいと思いました。2011年1月25日の出来事です。父にとって、この日は自分が救われた日です。死んでしまっていたはずですが、神に助けられた日です。ご存知の方もいると思いますが、私の父は漁師で、その日の午前7時ごろ、父は一人で船に乗って漁に出かけました。ちょうど、雨の季節で風も強く吹いていた日でした。しかし、父は家族を養うために漁に行かなければなりませんでした。陸から数キロ離れたところで突然嵐が吹き、大雨の中、何にも見えなくなりました。そして大波で、船の中が水でいっぱいになりました。船が沈む寸前に、父は海に飛び込んで、大波の中、懸命に二時間ぐらい泳ぎ続けました。しかし父は、どんどん力が尽きてきて、もう死ぬだろうと思ったそうです。その時、父は次のように祈りました。『神様、あなたのいつくしみに私の霊を任せます。しかし、私の子供はまだ小さい。私には大きな責任があります。助けてください』。しばらくすると、遠くから他の船が通りかかり、父の姿を見つけました。彼らは海から父を引きあげてくれました。父は助かりました。しかし、それまで家族を養うために大切にしていた船は海の底に沈んでしまいました。今も見つかっていません。私の家の扉の後ろには、「2011年1月25日、神に救われた日」と書かれています。私も家族もいつまでもこの経験を忘れません。いつも思い出します。父はその日に神に救われたと心から信じています。
先ほど読んだ福音書の中では「信仰」の重要さを教えてくださっています。ガリラヤの海で、イエスは嵐と風を静めるという特別の奇跡を行いました。イエスは使徒たちを安心させるために、御自身がいつも彼らとともにおられることを示すために、このようなことをされました。また、恐れていた弟子たちを落ち着かせるためでもありました。「なぜ怖がるのか。また、信じないのか」とイエス様はおしゃいました。なぜこの奇跡が起こったのか、よく考えてみましょう。弟子たちは叫び、神に助けを求めました。ですから、彼らは救われたのです。
人生において私たちは弟子たちのように、様々な形で恐れるという気持ちを持つことがあると思います。仕事に関して、健康に関して、学校に関して、将来に関して、しばしば不安や恐れを覚えるのではないでしょうか。そんな時、「なぜ怖がるのか。また、信じないのか」というイエス様の言葉を信頼して、様々な重荷を神様に委ねれば、神様は必ず助けてくれるでしょう。つまり、信仰を持って自分をゆだねることが必要です。祈りの中でどんな困難に遭遇しても、神のもとに来て、神に叫び求めて下さい。そうすれば、力ある神は私たちの人生のすべての問題に答えてくださいます。どうぞ、神様を心の底から信頼し、神様の御言葉を黙想しながら日々を過ごして参りましょう。