メッセージ - A年 復活節

今日の日曜日はQuasimodo(「〜のごとく」という意味)とも呼ばれています。それは、ミサの入祭唱の引いている第1ペトロの手紙2:2という箇所からとった言葉です。そこにはこう書かれています「生まれたばかりの乳飲み子のように、理に適った、混じりけのない乳を慕い求めなさい。これによって成長し、救われるようになるためです。」と。それは今年の復活祭だったせよ、昔別の日だったにせよ、洗礼を受けた時には私たちは現に生まれ変わったことを思い出させてくれる言葉です。キリスト者になってもまだ成長が続き、最初は乳飲み子のようなものです。私たちは第2朗読にある通り、神の豊かな憐れみにより「新たに生まれさせ[て]」いただきました。つまり、直接経験していなくても、キリストの復活によってこそ私たちは希望をもち生き生きと暮らすことへと生まれ変わっているはずです。

それから、同じ第2朗読では、ペトロは「見る」ことについて語っています。また、朗読される福音の箇所でも、有名なトマスの不在の出来事の中に、「見る」ことに触れられています。復活した主は、自分の姿を現したり、見えなかったり、見えても人が気づかなかったりする物語がたくさんあります。それでもなお、ペトロによれば私たちは「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。これこそ子供の性質ではないでしょうか。何でも聞いたことをただただ鵜呑みにするのではなく、理解できないことを素直に受け止めるということです。子供が単純すぎるのではなく、疑いがちな大人こそ複雑すぎるのです。自分で確かめなければ信じないのはむしろ大人の態度です。想像力と信頼力のある子供は、聞いた話を話し手の権威のゆえに受け止めることができます。他方で、乳飲み子・子供だからこそ、お母さんが見えなくなると怖くて寂しくなるのも当然です。そこで、お母さんの存在を疑うどころか、お母さんの帰りを切に求め、待ち続けることにつながります。

今日のミサをもって「復活の日」が終わりますが、復活祭の延長線はこれからも続きます。福音では「その同じ日の夕方」と「8日目後に」と二つの日に言及されています。復活の日は安息日の次の日、ユダヤ人の週の初めの日、つまり新しい始まりでした。1週間も経てば、終わりがまた始まりに直結し、大きな輪を描きます。言ってみれば、7日間にわった天地創造をなぞって、主の復活によって新しい創造が成し遂げられ、イエスはその初穂となりました。しかも、その新しい創造は7日目の神の安息で終わることなく、また新たに始まり、永遠に続いていきます。だからこそ、「8」という数字は古代キリスト教の芸術では、新しい天地創造および永遠の命の象徴として多いに使われていました。無理もないことですが、大聖堂の西側に建てられていた洗礼堂は多くの場合、八角形の形をしていました。それはまた山上の説教の真福八端をも思わせる奥深い象徴なのです。

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