メッセージ - A年 年間

私たちにとって、「三位一体」は神学的な議論の帰結ではなく、具体的な生き方へと招くものです。神が三つであるのに一つである、ということは、なぜなのか、どういうことなのか、私たちが理屈で説明できることではありませんし、それを完全に理解する必要もありません。けれども、父と子と聖霊が一つである、というのは、そこに愛の結びつきがあるからだ、愛が三つを一つにしている、そういうことはできるのではないかと思います。

三位一体の愛は、閉じられた、内側の関係の中の愛ではありません。それは、いつも外側に開かれている、私たちにも開かれていて、すべての人を招き入れる、広がりがある愛です。そういう意味で、私たちにとっても「愛」とは自分を開くことです。もし、私たちが目を開いて、目の前の人の痛みから目を背けずにいるなら、そこに愛があります。耳を開いて、苦しんでいる人の声に耳を傾けるなら、そこに愛があります。手を開いて、倒れている人に手をさしのべるなら、そこに愛があります。

第一朗読(出エジプト34:4b-6、8-9)の中で、イスラエルの民はかたくなで神に背いたけれども、その民の中にあって、民とともに歩む神の姿がモーセの言葉の中に示されています。第二朗読のコリント書(第二コリント13:11-13)では、お互いに喜び、励まし合い、思いを一つにして平和を保つなら、愛と平和の神が共にいて下さることになる、と語られています。そして福音朗読(ヨハネ3:16-18)では、神が私たちへの愛のためにひとり子さえ与えられた、と言われています。

愛すること、自分を開くことは痛みを伴います。他人のことで悩み、時間を使い、場合によっては、自分のためだけに閉じ込めておきたいものを、開いて明け渡さなくてはいけないからです。けれども、それこそ三位一体の父と子と聖霊が私たちに示している愛です。

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